Up なぜ「数は量の抽象」の方を択ったのか?  


    学校数学は,「数は量の比」ではなく,「数は量の抽象」を択った。
    なぜか?

    「割合論争」を背景としてどの程度に考えたらよいかは慎重な研究が必要になるが,結果のみを見れば,「割合論争」で遠山に軍配をあげた格好になる。 すなわち,遠山の論の方が正しいのではないか,と思われたということである。

    ひとが或る論を択り或る論を退けるとき,論の真偽が見られているわけではない。
    雰囲気というものが,支配的な要素になる。
    学校数学が「数は量の抽象」を択ったことについては,「遠山の論の方が正しいのではないか」の雰囲気の醸成が推察される。

    しかし,雰囲気の問題はとらえようがないので,これはよこに置くとしよう。
    ここでは,学校数学が「数は量の抽象」を択った理由を考える視点として,つぎの2つをあげる:

    1. 遠山の論には人受けする要素があるのではないか?
    2. 「数は量の比」は,内容的に理解されなかったのではないか?


    遠山の論には人受けする要素があるのではないか?

    これについては,遠山のつぎのことばが「人受けする要素」にあたると思われる:

      実体概念を固めてから関係概念に移ろうとするのである。
      ごく常識的にいっても実体概念の方が先で関係概念は後になる。‥‥<関係から実体へ>ではなく<実体から関係へ>というのが認識の順序に合っており,そのほうがずっと理解しやすいはずである。
      (教師のための数学入門 VI,数学教室, No.52 (1959, 3), pp.69,70)

    「数」に適用すると間違いになるが ( 没論理の核心 :「実体から関係へ」),生活感覚ではもっともと思ってしまうロジックである。


    「数は量の比」は,内容的に理解されなかったのではないか?

    「数は量の比」は数学である。
    これを理解する作業は,数学を理解する作業である。
    「数は量の比」は一つの体系の中にあり,これを理解するにはその体系から理解しなければならない。

    一方,「数は量の抽象」の方は,これを読むのに数学が要らない。
    「ここから話が始まる」といった感じで読むことになる。
    そしてこの話は,生活感覚で読める。
    数学的には没論理だが,内容がやさしく感じられるのである。

    実際,「数は量の比」の方は,教員がいま改めて教えられても,「難しくてダメ」の拒否反応が出るようなものである。

      例:速さ
      「数は量の比」では,速さは時間と距離の間の比例関係である。 速さの問題は比例関係の問題であり,比例関係の問題として解くことになる。
      一方,「数は量の抽象」では,速さは実体である。速さは距離÷時間であり,距離は速さ×時間,時間は距離÷速さとなる。 このときの「×・÷」は数学的には意味不明であるが,小学生のアタマには,この式を使った問題解法の方が圧倒的に入りやすい。

    ただし,「難しくてダメ」は,
      「数は量の抽象」でカラダをつくってしまった教員だからなのか?
        それとも,これから新しく学ぶ生徒にとっても同様か?
    というふうに改めて問題にされるべきことがらである。