Up | 数学教育は, 「出口」を立てない | 作成: 2017-08-26 更新: 2017-08-26 |
規格を実現するための飼料開発を,「教材開発」論として論ずる。 品種改良を,「教授/学習」論として論ずる。 どうしてこのようになるのか。 このようにしか数学教育を考えられないから,ということになる。 実際,数学教育を考えることは,難しい。 数学教育は,「飼育→?」のようになるからである。 この「?」を考えることが難しい。 数学教育に対する「飼育」のアナロジーは,間違っていない。 実際,数学教育の問題は,数学の授業を教室で受ける生徒が飼育動物のようではないということである。 飼育動物にとって,餌は空腹を満たすために食べたいものである。 餌に自分の方から寄っていく。 数学の授業の理想は,生徒がこのようになることである。 しかし,現実は,生徒は数学の授業を嫌うようになっていく。 授業者が,数学の授業・わかる授業をできないためである。 わからない授業を強いられる生徒は,当然その科目を嫌う者になる。 翻って,わかればおもしろくなる。 わかる授業は,おもしろい授業になる。 授業は, 「授業とは何か?」みたいに考えるものではない。 「どのような授業がわかる授業か?」と考えるものである。 さて,数学教育が「飼育→市場」でないのは,鳥が子どもにする餌やりが「飼育→市場」でないのと同じである。 数学教育の「飼育→?」の「?」は,鳥の餌やりを「飼育→?」と見たときの「?」と同じものである。 その「?」は,「世界」である。 数学教育学者が「出口」論を立てるのは,「市場」が彼らの「世界」になっているからである。 人を,「世界内存在」ではなく,「市場内存在」即ち「商品」として見てしまう。 「商品」として見るとは,規格品として見るということである。 一方,「世界内存在」としての人は,消極的には規格を裏切り,積極的には規格を無視・拒否する者である。 なぜ,規格を裏切り,無視・拒否する者なのか。 それが,生物の<生きる>だからである。 規格は規格外をつくり,規格外になった者はニッチを求める。 生物の系は自己更新──「進化」──する系であり,《ニッチを求めそして実現する》の不断が「進化」の内容である。 |