Up | 「ベクトル」の概念の出自 |
概念は,「個々には異なる」事物を「同じ」ものにしている。 同じであると見ているところのものは,<形>である。 こういうわけで,学は<形>の学である。 このような学のうちで,数学はとりわけ<形>の学である。 「とりわけ<形>の学である」という意味は,<形の出自になっているリアルな事物>に言及しないことが,数学の論述のスタイルになっているからである。 なぜ数学は,<形の出自になっているリアルな事物>に言及しないことをスタイルにしているのか? <形の出自になっているリアルな事物>はアタマの中において,論述を専ら<形>の論述にする方が,シンプルになるからである。 数学では,シンプルが要諦である。 なぜか? シンプルが,ノイズをできるだけ無くする方法だからである。 なぜノイズを無くすることが重要なのか? 論理運用の正誤を紛らわせるものが,ノイズだからである。 また,<形の出自になっているリアルな事物>に言及しない理由のもう一つに,形の一般性を損なわないということがある。 ──実際,形の出自になっているリアルな事物に言及することは,形の思考に枠をはめるふうにもなる。 しかし,数学の授業がこのスタイルでやられてしまうと,それは学生 (数学の入門者) にとって「何のことやらさっぱり分からん」ものになる。 このような授業が生じる理由は,授業者が「授業」というものをわかっていないからである。 数学書も,だいたいがこのスタイルで書かれている。 このような数学書が生じる理由は,書き手が一般読者というものをわかっていないか,あるいは専門数学を十分やってきた者を読者に定めて書いているからである。 あるいは,入門者を読者に想定して書くのはひどく面倒なことなので,これをやろうとしないからである。 学生は,つぎのことを知らない:
なぜなら,教師もずっとそのような学生であったからである。 特に,教員養成課程の専門数学科目も,(*) が学ばれるふうになっていない。 <形>の出自になっているリアルな事物を知らないでする数学の勉強は,無惨なものになる。 ただ,この「無惨」は,(*) を知らない者には「無惨」と意識されない。 学生も教師も,「数学の勉強はこんなもんだ」と思っている。 特に学生は,「数学がわからないのは,自分のアタマが悪いからだ」と思っている。 さて,「ベクトル」は<形>である。 どんな形か? 先ず,「大きさと向き」という形である。 「大きさと向き」の形の出自となるリアルな事物は,「直線移動」である。 「直線移動」を,「移動距離と移動方向」に捉える。 この捉え方を<形>として一般化すると,「大きさと向き」である。 「大きさと向き」が形になるものは,「力」もそうである。 移動では<大きさ>が視覚的であったが,力の場合,<大きさ>は視覚的でなくなる。 「過去に遡る・未来にとぶ」も,「大きさと向き」が形になる。 この場合は,<向き>も視覚的でなくなる。 「大きさと向き」の表現 (絵) が,矢線である。 「大きさと向き」の表現 (絵) は,矢線である必要はない。 しかし,「シンプルかつ使い勝手がよい」の意味で最適な表現 (絵) はどういうものかと改めて考えるとき,矢線を既に知っている者のアタマには,矢線以上に適したものは思いつかない。 「大きさと向き」の形がそのまま「ベクトル」なのではない。 「大きさと向き」では,さらに「和」や「倍」が考えられている。 これらを合わせて<形>にしたのが,「ベクトル」であり,「ベクトルとスカラ」であり,「ベクトル空間 (線型空間)」である。 実際,「大きさと向き」の出自として上に挙げた「直線移動」「力」「過去に遡る・未来にとぶ」は,「和」や「倍」が考えられている世界である。 「大きさと向き」の表現 (絵) は矢線であるが,これを使って「大きさと向き」の和・倍の表現 (絵) がつくられる。 矢線は「直線移動」をそのまま絵にしたものであるが,矢線の和・倍も「直線移動」の和・倍をそのまま絵にしたものである。
「ベクトル」の勉強は,数学的記述と「直線移動」「力」の事例の間の行った来たりでやる。 このようにすれば,「ベクトル」の話はすべて「アタリマエ・至極ごもっとも」をやっていることがわかる。
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