10.1.4 対象と対象式



 数学は言語の系である。その言語は対象を暗示するが,数学の中に対象は存在しない。特に,対象式は対象の表現ではない(対象式の背後に対象が存在しているわけではない)。

 われわれは対象式を対象の表現のつもりで扱うが,それは単に《このようにする方が馴染める》という理由による。

 例えば,われわれは等式を《両辺の対象式が表現している対象の相等》というように読もうとする。しかし,《対象式で表現されている何か》があるわけではない。実際,等式の真偽の規準は,“対象の相等”といったことではなく,文法である。即ち,二つの対象式を“=”でつないだ形の記号列は,二つの対象式がある変形規則の下で互いに他に変わり得るとき真で,そうでなければ真でない,ということになる(註1)(註2)

 強調するが,思いとは違って,数学には対象の導入/規定というものは存在しない。対象の導入/規定と見えるものは,対象式の導入であり,結局,文法の拡張(記号および記号列変形規則の追加)である(註3)

 例えば,自然数は実現されている限りで自然数であるが,“実現されている”ものは文法である。“自然数の色々”とは“ペアノの公理を実現する文法の色々”のことであり,“自然数の同型(一意性)”と言うときの“同型(一意性)”は,文法の同型のことである。



(註1) “2+3=5”と“2+3=1+4”を同種の式と見るためには,“5”は“2+3",“1+4”と同種のものでなければならない。したがって,“5”は〈対象(対象式で表現されるところのもの)〉ではなく,対象式である。そして“5",“2+3",“1+4”のうちの二つを“=”でつないだ記号列が真であるのは,これらが同じ対象の表現だからではない。実際,われわれはそのような対象を知らない

(註2) 等式に込めた思いは,“姿は違うが等しい”である。しかし,“違う姿”は現前しているが“等しい”何かがあるわけではない。このことが注意されねばならない。

(註3) 但し,対象式ないし記号の導入は,物理的な存在の導入ではない。例えば,“5”という数は物理的な存在ではない。記号は《ひとの実践(言語ゲーム)の中に示されている》と言う他ない。ある事態に対して“5”を了解し合うという形で,数字の“5”は存在する。