2.5.1 形而上学(イデア論)の傾向



 モノ(事態)に量を読み量を対象化するということを一旦為すと,われわれはつぎに,モノを量の表現のように考えるということをする。実際,《モノに量が示されている》という捉え方を反転させれば,《量の表現としてのモノ》という発想の仕方になる。

 実際は,量は〈幻想〉なのであるが,いまや意識の中では,モノは量の媒体ないし量の潜在形態として身分づけられ,〈量=幻想〉が〈モノ=実在〉の上に置かれるようになる。確固たる対象は量の方であって,モノは偶然的なものとなる(イデア論!)。

 例えば,物をゴムひもにつるすとゴムひもが伸び,バネの上にのせるとバネが縮むという事態が,重さの表現のように意識される。重さの一つの偶然の現われ(具現)のように意識される。

 しかし,繰り返し強調するが,われわれが数/量を実現する(“作る")限りで,数/量は存在する。実現されなければ数/量はない(註)



(註) “〈実現〉という行為に先立って数/量は存在する”──即ち,“発見され命名されるのを待っているかのように数/量は存在している”──と考える立場が実在論(プラトニズム)としてあるが,わたしはこの立場をとらない。
 なお,いったん実現された数/量に対しては《われわれから独立した存在》という見方をすることができるが,これは実在論とは別のものである。