Up はじめに 作成: 2009-07-23
更新: 2009-07-23


    数学教員養成 (数学教員になる修練) は,地道な営みである。
    数学の授業ができるカラダをつくるのに,近道や巧い手は,無い。
    まじめに,時間をかけて,修練するのみである。

    しかし,ひとは,<まじめに時間をかけて修練>を苦手とする。
    いつまでもこういうことを続けるだけになり,結局らちがあかないのでは?」と,不安になる。 そして,「もっと効率的なやり方,合理的なやり方があるのではないか?」とフラフラし出す。
    特に,<まじめに時間をかけて修練>の経験が乏しい/無い者は,数学教員になる修練に入る最初の段階でカラダが拒否反応を起こしてしまう。そして,「なにか簡単に済ます巧い手はないか?」とフラフラする。

    <数学の授業ができるカラダ>づくりは,十年単位で考えねばならない営みである。(実際,一生ものである。)
    カラダづくりは,時間がかかる。時間をかけることで,成る


    困ったことに,近頃は,教員養成系大学・学部がいちばんフラフラするようになった。 そこでは,教員がつぎのような考え方をする:

      ここに,これまでやられたことのない教育方法,授業の形,カリキュラムの形,課程の形がある。 これをやることで,教員養成は改善される。
    翻って,これがやられてこなかった従来型教員養成は,劣ったものである。

    このような考え方は,教育を実際的レベルで考えない思考法から出てくる。 教育を,概念レベルで考えてしまうのである。
    そして,こんなふうに思いつかれたやり方でもって,全体を統一しようとする。 ──ここでは,トップダウンという手法が用いられる。

    専門外のことは知らなくて当然なのだが,知らないということが認識されなくなり,わかったつもりになって「これまでやられたことがない」ことをやるようになっている。
    「これまでやられたことがない」のは,やる意味・価値がないことを見て取ることが,先人にはできていたからである。
    いまは,見て取れない者が,喧しくものを言う時代になっている。
    そして,学生を4年間ただバタバタさせる課程が組まれてしまう。

    教員養成系大学・学部がフラフラして,学生のフラフラを助長する。
    ここが問題である。
    というわけで,この論考をつくることにした。
    論考の趣旨は,単純である。すなわち,「フラフラするな」である。