Up 本サイトの特徴とその理由 作成: 2012-01-09
更新: 2012-01-11


    本サイトは,「かけ算の順序」論争を解説するサイトである。
    ここで説くのは,つぎのことである:
      この論争は,どちらかに軍配が上がるというものではない。 「かけ算の順序」は数学であるが,「かけ算の順序」論争は数学とは関係のない論争になっている。 実際,「かけ算の順序」の数学があることを知らない者同士が,自分の思いつきを言い合っているだけのものである。
    このため,本サイトはつぎのことに力点をおく:
      1.「かけ算の順序」の数学を解説する。
    2. このような「かけ算の順序」論争が起こる理由を,解説する。

    この内容において,本サイトは現在ユニークなものである。
    そしておそらく,今後もユニークであろう。
    どうしてそういうことになるかというと,<年季>がこのサイトをつくっているからである。

    実際,本サイトの内容はたいしたものではない。 しかし,つくるとなると<年季>を要する。
    こう言えるのは,いいかげん年を取ったことで,<年季>の意味がわかるからである。

    このサイトに関連する<年季>の内容は,つぎのようなものである:
    • ブルバキや大学院で専攻の general topology に鍛えられた関係で,数学の<構成>の方法論は得意分野である。
    • 学生時代が 70年をはさむ時期と重なった関係で,イデオロギーや思想は得意分野である。
    • 教員養成系学部・大学の教員をやってきた関係で,モンスターは得意分野である。
    自己紹介を兼ねて,これらの内容の一端を述べてみる。


    かけ算に順序はない」「かけ算の順序はどっちでもよい」「かけ算の順序はこだわるべきではない」の言い方で論難されているのは,学校数学の「1あたり量 × いくつ分」である。
    「1あたり量 × いくつ分」は,<数は量の抽象>のイデオロギーを構成するものの一つである。
    <数は量の抽象>のイデオロギーに対し,<数は量の比>の数学がある。
    学校数学の「数と量」の歴史には,<数は量の抽象>と<数は量の比>のどっちに転ぶかの時期がかつてあって,そのとき<数は量の抽象>の方に転がった結果が,いまの学校数学の「数と量」である。

    1960年前後の数年間の時期,<数は量の抽象>と<数は量の比>のせめぎ合いが,「割合論争」の形をとって展開される。
    当時の社会主義運動を背景に,数学を唯物論の上に立てることが企画される。 <数は量の抽象>が,このときの数学の内容になる。
    「割合論争」は,「<数は量の抽象>の遠山啓/日教組 対 <数は量の比>の和田義信/文部省」の形をとる。

    「割合論争」はわたしの2世代上の話であり,またわたしは専門数学 (general topology) の方から数学教育に入った者なので,「割合論争」は教育学部の教員に就職してから『算数教育』『数学教室』といった雑誌で押さえたのみである。 しかし,「割合論争」を第三者として見られた分,却ってこれの本質の部分がよく見えたというところはある。

    遠山は,ある論文で,和田の論に対してそれは「加群 (module)」だと述べている。
    あなたが論じている数・量の数学を,わたしが教えてあげよう。それは,加群だ。」といった調子の述べ方である。

    わたしは,大学学部のときは数学の授業の方はあまり熱心でなくて,時間の大半をブルバキに費やしていた。 そしてブルバキによって「加群」を鍛錬し身につけていた。
    そこで,遠山のこのことばがストンと落ちた。

    遠山には,「割合論争」の本質が,<数学>の形でしっかりと見えていたのである。
    しかし論争者としては,この<数学>を否定する格好の立場に自らを立たせる。
    このことをどのように見るか?
    遠山は,数学を唯物論の上に立てるという企画で勇み足をし,そして引っ込みがつかないふうに自分をした。 ──そういうことである。

    なお,<数は量の比>はそっくり「加群」ではない。 しかし,他に一言でいえる数学のことばがない。 そこで,わたしも「<数は量の比>の数学は加群」という言い方をすることがある。 しかしこれも,遠山の影響かも知れない。


    「割合論争」は,わたしが「数学は<数は量の比>」の論をつくることになる契機である。 そしてもう一つの契機に,1977〜1980 に『数学セミナー』誌 (日本評論社) 上で展開された「量の数学」(小島順) がある。
    これもリアルタイムに経験したものではない。 バックナンバーでこれを押さえたのだが,それは就職してからのことである。
    さて,そのテクストのなかに「測らなければ量はない」のことばが出てくる。
    わたしは,哲学がウィトゲンシュタイン/プラグマティズムなので,このことばがストンと落ちた。

    測らなければ量はない」の読み方は,「数が量をつくる」である。
    《数 → 量》が,「量の数学」構築の方向になる。
    逆に《量 → 数》で以て「量」を自体的に立てると,自家撞着になる。
    その時期,『量と数の理論』(田村二郎) が出ているが,まさにこの自家撞着をやっている。

    《数 → 量》は,「普遍対象 (universal object)」が方法になる。
    「普遍対象」の方法はブルバキで身につけていたのであるが,実際にこれに思い至るまで,ずいぶん手間取った。 しかしともかく,ブルバキをやっていたことがここでも役立ったわけである。

    こうして,「量の数学」はつぎのようになる:
    1. 「数・量」のプラグマティズムを数学にすると,加群もどきになる。
    2. 数の構成は,この加群もどきの実現になることが条件になる。
      (自然数,分数,正負の数,‥‥ は,確かにこうなっている。)
    3. 数から,<量の普遍対象>を構成する。
    4. 「量」を,「<量の普遍対象>に同型なもの」と定義する。


    この数学の論述も,<年季>のわざである。 特に,大学院の general topology 専攻の経験とそれの風化のわざである。