Up | 「子どもがテストでバツ」の教育観が論争に交わる | 作成: 2012-01-07 更新: 2012-01-07 |
ネットで「かけ算の順序」の検索をかけると,「かけ算の順序」と「子どもがテストでバツ」をくっつける論によく出会う。 つぎが論者の主張である:
(2) <数学を学ぶ>は<数学道をする> 勉強は,道を行うことである。 数学を学ぶことは,柔道や剣道をすることと同じであり,一つの道を行うことである。 <数学を学ぶ>は<数学道をする>である。 全国大会級の運動部員は,学校の通常の科目履修を免除される。 なぜか? それの練習 (=その道の勉強) に努めることが,道を行うこととして,科目履修と等価だからである。 なにごとでも,勉強するときは,それを道として行う。 道として行っていない勉強は,未だ勉強になっていない。 道は,形(かた) の道である。 ゴールの形があると見なして,それに到達しようとする。 これが勉強である。 形へのこだわりが,勉強である。 勉強の第一義は,形へのこだわりである。 こういうわけで,つぎのレトリックがすんなり心に落ちる者は,「勉強」の意味がわかっていない者である:
このレトリックは,つぎのレトリックと相通じるところがある:
このとき,<走り>は,道である。 徒競走の順位は,勉強の進捗を知るために活用するものである。 特に,勉強の進捗を知るために活用する<ビリ>に,否定的な意味はない。 しかし,<ビリ>に否定的な意味を付ける者が出てくる。 人道主義を装うことが好きな者が,それである。 (3) 教えるとはバツをつけること 「かけ算の順序」がわかるようになるためには,それの勉強をしなければならない。 勉強の形は,何度もバツをつけられることである。 バツを何度もつけられることを通じて,「かけ算の順序」はわかるようになる。 翻って,「かけ算の順序」の指導は,必要なだけバツをつけることである。 もし100 回バツをつけることが必要なら,100 回バツをつけねばならない。 バツのつかないことは,「おめでとう」ではない。 もし生徒が何度もバツをつけられるというふうになっていないとしたら,それは何度もバツをつける指導を教師がしていないからである。 何度もバツをつける指導をしていないのは,何度もバツをつける指導を行なえないからである。 その教師に指導力がないからである。 「かけ算の式の順序にこだわってバツをつけるのはやめるべき」は,文字通りでは,間違いである。 「かけ算の式の順序にこだわってバツをつけるべき」が正しい。 ただし「かけ算の式の順序にこだわってバツをつけるべき」では,学校数学の「かけ算の式の順序にこだわる」が数学になっていないことが問題になってくる。 学校数学の内容で「かけ算の式の順序にこだわる」をやられるのは,生徒にとって被害である。 この意味では,「かけ算の式の順序にこだわってバツをつけるのはやめるべき」は一面正しい。 なぜ「一面」であって「全面」ではないのか? 「マルをつけろ」というふうにもならないからである。 |