Up | 論争は,遠山主義対モンスター ──数学のない論争 | 作成: 2012-01-10 更新: 2012-01-11 |
A. 遠山主義 学校数学/文科省/遠山主義の「かけ算の順序」に対する有効な論難の形は,「1あたり量 × いくつ分 は,なぜこの順序でなくてはならないのか?」である。 遠山主義者は,この論難に答えることができない。 なぜなら,「1あたり量 × いくつ分」は遠山啓から出てきているからである。 「遠山啓がそう言っている」 と答えたら,それは遠山啓を教祖に頂く遠山教になってしまう。 遠山啓が「1あたり量 × いくつ分」 としたのは,単につぎが理由である:
そしてこのときは,上の論難に対してはつぎのように返すしかない:
数学は,このタイプの論難とは無縁である。 なぜか? 先ず,積の定義において「×の前後の2数の順序」が定められることになるが,これは<取り決め>である。 <取り決め>によって,「×の前後の2数の順序」が決まる。 そして数学は,「この<取り決め>を受け入れるときは,この<取り決め>から推論で導かれることも受け入れなさい。」となる。 かけ算の文章題での積の立式は,推論である。 そして推論から導かれる積の2数の順序──この意味での「かけ算の順序」──は,一意に決まる。 「どちらでもよい」にはならない。 また,積の交換法則の話が出てくるのは,立式のつぎの段階であるところの<計算>においてである。 モンスターのモンスターたる所以は,以上の<数学の方法>を知らないことである。 B. モンスター 本論考でいう「モンスター」には,否定的な意味はない。 勝手を知らない場で行為を余儀なくされるとき,ひとはだれでもモンスターになる。 特に,「モンスター」には,「愚」とか「わがまま」の含意はない。 その場の勝手を身につけている者が,これを「愚」「わがまま」にするのである。 「1あたり量 × いくつ分 は,なぜこの順序でなくてはならないのか?」から「かけ算に順序はない」に短絡するのは,数学の場においてモンスターである。 このモンスターは,「かけ算の順序」の数学ないし数学における論理の方法論 (「命題論理」「述語論理」というときの「論理」) を知らないためのモンスターである。 「かけ算は可換,よってかけ算に順序はない」タイプのモンスターもいる。 これは,つぎのことを知らないためのモンスターである:
「×」の定義は,これから数の系 (N, +, ×) に仕上げていこうとする集合Nに対し積の記号「x」を導入するものである。 これは,つぎのような記述になる:
(2)「可換」の定理 積の可換の定理は,つぎの記述になる:
(3) 定義と定理の位置関係 上の定義と定理に見るべきは,「可換」は「かけ算の順序」をいったん決めてから導入するようになるということである。 「順序のないかけ算」の定義は,ない。 数学者も,以上のモンスターになり得る。 実際,数学者であることは,<算法の数学>を修めていることを意味しない。 もっとも,数学者であって「かけ算に順序はない」を唱えるというのは,普通ではないとしてよい。 モンスターになるのは,<数学を使うことが得意>,<学校での数学の成績がよかった>で以て「自分は数学ができる」の思いになっている者である。 「自分は数学ができる」が「算数の内容など自分には他愛のないものである」になり,モンスターをやってしまうのである。 「自分は数学ができる」のタイプは,たいてい,「数学を知っている」と「数学を使う」の区別がついていない。 数学教育に引き寄せて言えば,「わかる」と「できる」の区別がついていない。 実際,算数/数学科の授業において,「できる」生徒は「わかる」にこだわらない生徒である。 「わかる」にこだわる生徒は,授業の中では愚図な生徒になる。 しかし,この愚図が,数学をする者の資質として大事なものになる。 逆に,「できる」生徒には,落とし穴が多い。 |