Up | 要 旨 | 作成: 2013-03-09 更新: 2013-03-09 |
端的に,大学教員の授業力の問題である。 授業力のない大学教員は,このことがわからない。 実際,学力とは何か・授業力とは何かをわかっている者が,「自分が,わからない・できない生徒をつくっている」という考え方をもてる者である。 大学教員は,「自分が,わからない・できない生徒をつくっている」という考えに立てないのが当然なのである。 大学教員は,専門性でこの職を得ている。 授業力で得ているのではない。 「大学教員」には,もともと「授業力」の含意はない。 大学教員は,「教える」がわからない者である。 授業力のない教員は,自分のできることをやって,それを「授業」とする他ない。 授業時間を自分のできるもの (得意なもの) で埋めることになる。 授業を,学生本位ではなく自分本位でつくっているわけである。 大学教員は,講義 (<伝える>) を授業の形にする。 これは,生徒を自分のコピーにして,《自分自身に伝える》をやるものになる。 自分のことは自分に伝わるわけであるから,授業は《伝えることは,その分だけ生徒に伝わること》調になる。 教員はベスト・エフォートで授業している。 この《自分のベストでやっている》は,「自分のやっていることがベストだ」に転じる。 大学教員は,自分の授業力を疑わない。 事実は,大学教員は授業ができていない。 授業ができていないことは,「わからない・できない生徒」に現れる。 自分の授業力を疑わない大学教員は,「自分の授業でわからない・できない生徒」の原因を,自分の外に立てる者になる。 即ち,学生や課程のせいにする。 授業力のない大学教員は,自分の担当科目で授業経験を積み,授業力をつけていくことになる。 この経験は,閉じたものであり,授業力が適正に育っていくことは,期待できない。 ここに,「大学教員の授業力陶冶」(「FD」) が課題化される。 しかし,この課題に取り組む役に就く者もまた,大学教員である。 彼らは,「できない」がわからない者であり,したがって「できない」に対し処方を立てることのできない者である。 |