Up 「数学教育」の公理 作成: 2022-01-09
更新: 2022-01-09


    個は多様である。
    一方,個は社会の員という形でしか生きられない。

    社会は,<時々刻々進路の選択を迫られ,色々な可能性から一つを択る>を存在様式にする。
    この意味で,社会は一律主義である。

    個の多様性と社会の一律性は,矛盾の関係にある。
    自由を求める個は,一律を求める社会と対立する。

    この矛盾・対立は,本質的なものである。
    個が社会の員という形でしか生きられないとは,社会から疎外されることが個の生き方だということである。


    社会体制は,全体主義と個人主義である。
    前者は統制主義,後者は自由主義である。

    個人主義/自由主義体制は,個人主義/自由主義を担保した一律主義になる。
    その一律主義の方法は,「多数決」である。

    なぜ多数決か?
    多数決しかないからである。
    「多数」に「正しい」の意味は無い。

    多数決を一律主義の方法にする立場を,民主主義 (デモクラシー) という。
    「民主主義」に「正義の実現」という意味はない。


    民主主義体制は,員が賢いことが条件になる。
    愚かな員の多数決は,社会を危ない方向に進ませることになるからである。

    民主主義体制は,員が賢くあるよう,員を賢くする装置をつくる。
    それが,「公教育」である。


    ただし,「賢くする」は,おっとりした物の言い方である。
    これは,「騙されないようにする」にまで行かねばならない。

    生物の生きるは,他の生き物を食い物にするである。
    社会の員として生きる人間も同じ。
    そしてこの場合は,<他人を食い物にして生きる>。

    相手を食う方法が,「騙す」である。
    商品のほとんどは無くて済むものだが,ひとがそれらを買うのは,売り手が騙しのテクニックを駆使しているからである。
    マスコミの伝えることはほとんどが虚偽だが,ひとがそれらを信じるのは,マスコミが騙しのテクニックを駆使しているからである。
    社会の賢い員になるとは,自分を騙そうとしてくる者たちから騙されないようになるということである。


    公教育には,数学が含まれる。
    実際,数学は伝統的に公教育の筆頭科目の一つになってきた。
    よく考えられてこうなったというものではないが,これは正解である。

    虚偽・欺瞞の敵は科学である。
    騙そうとしてくる者から騙されない方法は,科学である。
    その科学は,言語の中に数学が入ってくる。
    よって,科学を自分の武器にしようとすれば,数学を使えるようにならねばならない。


    翻って,数学を使えない者が員の多数を占める社会は,民主主義体制ではあり得ない。
    実際,ひとはそう思っていないが,彼らは日々,イデオロギーに取り憑かれ,全体主義に翻弄されて生きている。

    民主主義は理念であり,ゴール概念にとどまるものである。
    ただし,己は民主主義だと思うことは,イデオロギーに取り憑かれ全体主義に翻弄される生き方の調整ブレーキになっている。
    民主主義の役どころは,このあたりである。


    数学教育は,できてまあまあといったものである。
    教える者も教えられる者も,上等なものではないからである。
    数学教育に携わる者に必要なことは,「人間ちょぼちょぼ」の達観を持つことである。

    「数学教育に一生懸命」に,「正しい」の意味は無い。
    「正しい」は,頭の狂った者の考えることである。



    数学教育はちょぼちょぼで上等なのだが,これは絶えず劣悪にされる。
    それは,数学教育を食い物にする者が現れ,そして数学教育を我が物にしてしまうからである。

    「食い物にする」は,文字通りの意味である。
    即ち,彼らは,数学教育を我が物にすることを生業にして,日々の糧を得る。
    ただし「数学教育を食い物にする」は,「数学教育に一生懸命」と言い換えられる。
    彼らは,こうして己を合理化する。

    「彼ら」とは,だれのことか?
    「数学教育の専門家」を振る舞う者たちである。
    そしてその最もわかりやすい例が,「数学教育学者」。



    数学教育は,ちょぼちょぼで上等。
    「科学のことばの教育」を立場にしているだけでよい。
    数学教育の問題は,「数学教育に一生懸命」の(てい)で数学教育を劣悪にする者たちの存在である。