「経験等価だから何でもあり」の立論は,つぎのようになる:
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経験は,「得は不得,不得は得」「得は失,失は得」である。
すなわち,何かを得ることは替わりに何かを得ないことであり,何かを得ないことは替わりに何かを得ることである。
何かを得ることは替わりに何かを失うことであり,何かを失うことは替わりに何かを得ることである。
経験の得と損は,それぞれ損と得に裏返る。
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また,Aの得により替わりにBの不得となったときも,この先何かの契機で,Bの得の起こることがある。
そしてこのときのBの得は,最初からBの得があった場合より,よいものであり得る。
「結果オーライ」というわけである。
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以上のことから,得・不得ないし得・失の関係にある二つの経験は,等価とするのみである。
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これを「学校での勉強」に適用すると,つぎの「授業等価」論になる:
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よい授業を受けられている生徒は,替わりに何か大事なことを得損なっている。
ひどい授業を受けさせられている生徒は,替わりに何か大事なことを得ている。
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しかし,これは詭弁になる。
「経験等価」の立論は,無理である。
特に,「学校数学は何でもあり」の理として「経験等価」を立てるのは,無理である。
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