Up | 要 旨 | 作成: 2012-07-31 更新: 2012-08-25 |
先ず,「何でもあり」は構造的なものである──「何でもあり」は構造敵必然である: そして,「何でもあり」の構造は,学校数学を含む大きな系の定常均衡/最適相としてある。 定常均衡/最適相であるとは,「何でもあり」に「それでもよい」が含蓄されているということである。 では,「何でもあり」が「それでもよい」となるところの学校数学は,何ものだということになるのか? 修業一般だということである。 学校数学の「何でもあり」の意味は,「何でも修業になる」である。 実際,現前の学校数学は,修業になっている。 そして,全体では,現実的に (すなわち,所与に対し) これ以上は望めない修業になっている。 実際,本論考は,「学校数学は何でもあり──なぜなら何でも修業になるから」を数学教育の境地・達観と見るのである。 では,修業一般である学校数学は,なぜ「数学」を体裁とするのか? 本論考は,「数学」の体裁を「方便」と見る。 こういうわけで,本論考がつぎに進む先は,学校数学「方便」論である。 |