Up | 「数学の授業である/ない」とは? | 作成: 2012-08-02 更新: 2012-08-02 |
その主題は,数学の体系の中にきちんと位置づいている。 現前の授業が数学の授業であるかそうでないかは,主題の扱いがこの主題の数学内の位置づけに準じているか反しているかである。 授業は,相手の生徒に依存する。 方便として主題の論理を逸脱することが,普通のことになる。 方便の要諦は,授業者が「方便」の認識をもっていることである。 方便であることを認識して方便を用いる者は,この方便のツケをこの先どこかで払うことを予定している者である。 方便を認識できる者は,主題の数学を知っている者である。 数学を知らない者は,方便であることを認識しないで方便を用いる。 すなわち,数学を教えていると思っている。 これは,方便のツケを後に来る者に回し,そしてそのことを知らない者である。 方便を認識して方便を用い,この方便のツケをこの先どこかで払うことを予定している授業者は,授業を主題の数学内の位置づけに準じて行っていることになる。 方便の認識がなく,これが数学だと思って授業し,方便のツケを後に来る者に回す授業者は,授業を主題の数学内の位置づけに反して行っている。 見掛けは同じ授業でも,数学の授業であるかそうでないかの別がある。 翻って,授業が数学の授業であるかそうでないかは,見掛けから判じられるものではない。 数学の授業であるかどうかは,これを構成要素の一つとして含むところの指導課程 (最も小さい単位が「単元」) から判じられる。 例:《自然数の「÷」を「分ける」のことだと教える》 授業者が,「÷」の数学を知っていて,遅くとも「分数」のところで「÷」の意味の修正をきちんとしなければならないと認識する者であるとき,この授業は数学の授業である。 授業者が,自分自身「÷」の意味を「分ける」にしている者であるとき,この授業は数学の授業でない。 授業者が,「分数」の段になったときに「÷」を「形式不易」で説明し自分自身その説明に納得する者であるとき,この授業は数学の授業でない。 |