- 主流出口論の型
数学教育学では,<社会が必要とする人材>を学校数学の出口と定めてこれを論ずるタイプの学校数学出口論が,「なぜ学校数学か?」論の主流になっている。
自分がリアルタイムに経験してきたものでは,「数学的な考え方」「問題解決学習」と,そして今日の「OECD-PISA」がある。
それより昔には,「生活単元」というのもあった。
これらの出口論には,共通の型がある。
そして,同型という視点に立てば,同じものが名前・装飾を変えて再登場というふうになっている。
以下,この型がどういうものであるかを述べる。
<社会が必要とする人材>は,どのような行為ができるかという形で表現される。
行為を表現するのは,行為語である。
いま,「○○」がこの種の行為語の一つであるとしよう。(例えば,「コミュニケーション」。)
出口論は,つぎのように論を進める:
- ○○できる者がいるのに対し,○○できない者がいる。
- みなを○○できる者にすることは,学校教育の仕事である。
- ○○できる者を実現する方法は,○○の行為をいろいろ・たくさん課すことである。
- 各教科が,自分の領域でこれを行う。
特に,算数科・数学科で,これを行う。
- 算数科・数学科で「○○の行為をいろいろ・たくさん課す」を実施するに際し,つぎのことを研究の形で明らかにしていかねばならない:
- 「○○」の意味・内容は? (概念分析研究)
- 「○○の行為をいろいろ・たくさん課す」の指導法は? (授業実践研究)
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そして,学界および教育現場において概念分析研究・授業実践研究が開始され,しばらくの時期この活動が続く。
この活動は,「研究という形でやれることは,やり尽くした (これ以上やっても同じ)」という形で,やがて煮詰まる。
そして,新装の出口論の登場となる。
出口論は,研究を駆動することが機能である。
求める人材が実現されたかどうかは,追及されない。
実際,求める人材が実現されたかどうかは,わかりようがない。
翻って,出口論研究は,求める人材が実現されたかどうかが追及されない格好になっているので,何でもありでやれる。
研究内容に「当っている・当っていない」がない。
誰もが安全に参加できる。
研究ムーブメントは,唯一<煮詰まる>という形で終わる。
<失敗>で終わるのでない。
- 経済主義
主流出口論は,発信源がアメリカである。
その出口は,アメリカの価値観を表したものになる。
アメリカの価値観は,普遍的な価値観ではなく,あくまでも一つの特殊の価値観である。
そこで,出口論摂取では,アメリカという国の特殊性をしっかり理解しておくことが肝要となる。
アメリカ発の出口論は,経済主義になる。
今日では,特に,グローバリズムになる。
そこで,数学教育学は,経済主義・グローバリズムの相対化を主題としてもつ必要がある。
この相対化のヒントを求めるのに,遠くを見渡す必要はない。
自分の足下の数学を思い起こせばよい。
数学の真骨頂は,実利からの超然 (実利に背を向ける) にある。
ユークリッドの第5公準の問題の決着に延々とかかずらうのが,数学である。
数学を「科学の基礎」と称えるのも,あやしい。
科学的応用をもたない主題の方があたりまえであり,そしてそれらは「将来の科学的応用をまつ」というふうに価値が考えられているのではない。
数学教育学では,数学を実利とつなげるような考え方をすることが主流になる。
これは,数学に基軸を置くスタンスからは,出て来ない考え方である。
翻って,数学教育学には,「数学に基軸を置く数学教育学」というものを改めて主題化する余地がある。
- 勉強した数学は,これを使うというふうにはならない
「数学を勉強して何の役に立つ?」の問いに答えるとは,何を答えることか?
<数学の勉強がもたらすもの>を答えるのである。
<数学の勉強がもたらすもの>は,数学教育学のリサーチでわかるものではない。
数学を勉強した者が,自分自身を内観するという方法で,探っていくしかないものである。
もっとも,内観はあてにならない。
ある時期「これが<数学の勉強がもたらすもの>だ」と思ったものは,それからしばらく経って,「あの考えはどうも違う」になる。
しかしそれでも,傾向としては,つぎの考えに収束していく:
勉強した数学は,これを使うというふうにはならない。
勉強した数学は,自分のカラダになっている。(数学を勉強していなかったら,いまのカラダは無い。)
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- 出口論から指導内容再編は出て来ない
出口論は,「<社会が必要とする人材>を育てる算数科・数学科の授業開発」の研究を駆動する。
研究は,指導内容の再編をゴールに見ている。
しかし,指導内容の再編を見ることはない。
指導内容の再編を見ることがないのは,数学がそのようなものではないからである。
指導内容は,学校版ではあるが,いぜん数学である。
そして数学は,<社会が必要とする人材>を育てるもののようには,存在していない。
逆に,<社会が必要とする人材>を育てることには無関心の相で,存在している。
- 出口論現象学
上に簡単に触れたように,出口論は内容的に論点をいろいろ含んでいる。
しかし,その論点を挙げ異論を立てていくというのは,出口論に対していちばんにすることではない。
出口論は,それの実際的機能に意味がある。
この機能を押さえることが,出口論のとらえとして最も重要なことになる。
出口論が駆動する人の活動は,学界や教育現場の研究活動だけではない。
教育行政があり,教育ビジネスがある。
そしてこれらを含めた大きな「経済効果」がある。
ひとの社会は,「経済効果」をつくる装置によって回っている。
出口論はこの種の装置として機能している。
よって,出口論は無くてはならない。
一つの出口論は,これによって駆動される活動が<やれることをやりつくす><煮詰まる>という形で終焉する。
しかし,出口論は無くてはならない。
そこで,名前・装飾を変えて再登場となる。
新装という方法で再登場できてしまうのは,終焉が「結果追及されることのない活動の終焉」だからである。
こういうわけで,出口論の内容批判は,学術的には意味がない。
出口論という現象は,一つの社会の要求する機能がそこに果たされているという意味で,必然である。
出口論は,それの必然性,機能性,機能のメカニズムといった視点から,研究の対象になるものである。
- 「言語」の主題化
「数学を勉強して何の役に立つ?」の答えの探求は,言語行為である。
探求のタイプは,言語運用のタイプと対応している。
出口論の「研究活動を駆動し経済効果を生む」機能は,言語運用のタイプが条件になっている。
その言語運用のタイプは,表象主義ということになる。
表象主義は,ことばを存在の鏡像とみなす立場である。
概念分析としてことばを分析することが,存在の分析になる。
この表象主義は,ひとにとってわかりやすい。
西欧合理主義社会は,表象主義を方法にしている。現前の学術もこの中にある。
合理主義社会・学術の繁栄の秘密は,表象主義にある。
一方,表象主義は,言語の中で閉じる。
言語の外に出てしまうタイプの探求 (例えば哲学) は,独自に言語を開発しなければならなくなる。
この探求がつくるテクストは,表象主義で世界認識をやってきている者にとって「難解」なものになる。
表象主義のことば使いと違うからである。
「数学を勉強して何の役に立つ?」の答えは,<数学の勉強がもたらすもの>の内観を中心に探求することになる。
内観は主観である。そして,内観は言語の外にでる。
内観を方法にするということは,学術の枠から出るということである。
- おわりに
社会・組織が現前のようにあるのは,これの活性をつくり続けているものがあるからである。
これが,広い意味での「経済」である。
学校数学および数学教育学も,「経済」装置をもっていることになる。
実際,出口論がこの役を果たすものになっている。
出口論には,「経済」装置として機能するためのしくみが,うまく備わっている。
「活動を駆動できる」「同型を繰り返し使える」しくみが,これである。
「活動を駆動できる」の実現は,表象主義のわかりやすさによる。
「同型を繰り返し使える」の実現は,駆動する活動が結果追及されることのないタイプのものであり,いつでも閉じられることによる。世代忘却も,これの実現に与る。
「数学を勉強して何の役に立つ?」の答えの探求は,出口論の内容を批判するという関係には立たない。
両者は,最初から意義・次元を異にするものである。
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