「役に立つ」は,「役に立つ」としているもの以外を除くとき,依然「役に立つ」として残っているか?──残らない。
これが,『荘子』の中にある「無用の用」である:
惠子謂莊子曰:子言無用。
莊子曰:知<無用>而始可與言<用>矣。
夫地非不廣且大也,人之所用容足耳。
然則廁足而墊之,致黃泉,人尚有用乎?
惠子曰:無用。
莊子曰:然則無用之為用也亦明矣。
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歩くとき,大地のうち,自分の足がついた部分しか使っていない。
では,その部分のみを残して,残りを削り取る。
それは依然歩くのに使えるか?
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(『荘子』, 雑篇・外物 7)
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ソシュールの「差異が意味をつくる」は,「無用の用」(荘子) と同型である:
自分が対象化している存在Aは,Aと共にあるものによって,存在になっている。
Aと共にあるものを除いてAのみにするとき,それはAでなくなる。
何かが存在するためには,それをポジとするところのネガが必要になる。
ものごとは,ほかの多くのものごとと「互いに支持し・位置づけし合う」関係をつくるようにして,<存在>する。
例:
- アニメーションのキャラクターの背景には,特に意識しなければそれとは見えてこない物がたくさん描かれている。
また,背景音がずっと使われているが,それらは特に意識しようとしなければ,意識にのぼらない。
では,意識されないからといってそれらをとってしまうと,どうなるか?
画面から<意味>が失われる。
- 自分がいま見ている風景を考える。意識の対象になっているものは,ごく僅か。
では,これ以外を消去するとどうなるか?
意識の対象になっていたものは,依然その<意味>を保っているか?
- 「昆虫」は,「昆虫」以外を除いたとき,依然「昆虫」の意味で残れるか?
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