Up | おわりに | 作成: 2013-08-22 更新: 2013-08-25 |
そして,わたしはずっと,数学教育学を生業としていてこれをやったことがない者であった。 言い訳をするなら,文献を取りにくいのである。 もっとも,ほんとうに取ろうと思えば,取れないわけはない。 そこまでやろうという気にならなかった,ということである。 そして,そこまでやろうという気にならなかったのは,文献が手近になくて,どんな対象かわからなかったからである。 (堂々巡り) それが,ここしばらく「学校数学の勉強は何のため?」をやっていて,そしてその中で「形式陶冶」に進み,「形式陶冶説批判」の押さえが必要になり,そしてネット検索したら国立国会図書館のオンラインライブラリーに長田新の『形式的陶冶の研究』があり,ダウンロードしてこれを読めることになった。 それで,読んでみたわけだが,なんとむかしの自分の論形をそのまま見出すことになった。 わたしの場合は,当時 NCTM (The National Council of Teachers of Mathematics) から出された『An agenda for action ― Recommendations for school mathematics of the 1980s.』を契機に興った「数学的問題解決」「問題解決ストラティジー」唱導の傾向に対する批判であった:
そして,その当時のわたしの思想・哲学は,Wittgenstein に大いに影響されたものであった。 で,いま思うに,どうやらこの論形は,年齢 (30代) とそのとき自分が影響されていた思想・哲学 (プラグマティズム) のクセのようである。 若い頃は,「数学を勉強するのは頭を練るため」のような話は,まったく受け付けられなく,実際,軽蔑したものである。 その話は「形式陶冶」を語っていたのである。 若い頃は,「数学の勉強は<数学の勉強>以上でも以下でもない」というふうに考えていた。 そして,これの立論として,「数学的○○」式出口論の批判を試みたりした。 いまわたしは,もう少しで64歳になろうとして,「数学の勉強」「形式陶冶」についてはぜんぜん違う考え方をする者になっている。 「数学的○○」式出口論についても,組織論的視点からの機能的意義を見るようになっている。( 学校数学出口論の構造) 「学校数学の勉強は何のため?」の論考では,「年齢」が中心的テーマになっている。 この「年齢」のテーマを,この度は『研究』から反照的に回収することになった。 (ちなみに,この職業をやっていると,この種の「出会い」がよくあって,その都度なにか運命的・宿命的なものを感じるのである。) さてそこで,むかしの自分の清算のつもりで,『研究』の論形の見定めをやることにした。 というのも,自分はいま「集大成モード」をやっているところだからである。 実際,「学校数学の勉強は何のため?」という,同業者が見たらアホみたいなテーマも,「集大成モード」としてやっているわけである。 書き始めてからは,けっこう速く進んで,もうこの「おわりに」に来た。 やはり昔馴染みの主題だからである。 雑駁な論述だが,この年になると,これでよいのである。 なにせ,書くことがくたびれてしょうがない。 というわけで,一応これにて終了である。 |