Up | 対立の見掛けと本質──研究者エゴ | 作成: 2013-08-15 更新: 2013-08-17 |
『研究』の時代の「二派」は,形式陶冶説批判で批判される側と批判する側である。 これは,「純正数学」対「教育の社会化」ないし「人間教育」である。 そしてこれは,「数学を-対-数学で」の見掛けで,いまに続く:
二派の対立という現象は,二派が功罪相半ばであることを示す。 よって,一方に強く傾くとき,それの<罪>が大きく現れて,失墜に向かう。 もう一方が替わって出てきて,今度はこれに強く傾く。 そして,<罪>が大きく現れて,失墜に向かう。 ──これが繰り返される。 このように,二派の対立構造は,主流交替の振り子運動を現すことになる。 ところで,『研究』の時代の「数学を-対-数学で」では,「数学を」が「形式陶冶 (作用主陶冶)」であり,翻って「数学で」は「実質陶冶」ということになった。 いまの「数学を-対-数学で」では,「数学を」が「実質陶冶」になり,翻って「数学で」が「形式陶冶 (作用主陶冶)」になる。 そこで,「形式陶冶説批判」とは何であったのか?という本論考のテーマになってくるわけである。 以上のことが示しているもの,それは,「形式陶冶説批判」の「形式陶冶」は見掛けだということである。 対立する二派は,「形式陶冶 (作用主陶冶)」を正しいとする者としない者ではない。 では,対立する二派は,何と何か? 数学者エゴと教育学者エゴである。 研究者は,学校数学そして数学教育学に,自分が研究者として居られる形を求める。 数学者エゴは,自分は教育がだめなので,教育なしで済ませられる学校数学そして数学教育学を求める。 教育学者エゴは,自分は数学がだめなので,数学なしで済ませられる学校数学そして数学教育学を求める。 学校数学そして数学教育学は,研究者エゴの衝突する場である。 数学者エゴも教育学者エゴも,学校数学そして数学教育学では弱みをもつ立場である。 弱みの隠蔽に一生懸命になる存在である。 振り子運動は,お互い弱みをもつ者の間の主流交替であり,そのモーメントも,《一方が得点する》ではなく《一方が失点する》である。 |