Up | プラグマティズム | 作成: 2013-08-11 更新: 2013-08-24 |
ここで「形而上学」の言い回しを使わせているものは,プラグマティズムの哲学である。 西欧思想・哲学の伝統 (主流) は,現象に対し《見えるものは,見えないものの現れ》というふうに<見えないもの>を立てることが,これの本質 (クセ) である。 <見えるもの>と<見えないもの>を立てるこの説は,形から「対応説」である。 プラグマティズムは,表象主義/合理主義の「対応説」に対し反形而上学を以て反対するものである。 念のため言い添えるが,<見えないもの>を立てることを退ける思想・哲学は,プラグマティズムだけではない。 実際,「観念論批判」「形而上学批判」はいろいろな思想・哲学的立場からおこるが,「観念論批判」「形而上学批判」とは,要約していえば,<見えないもの>を立てることに対する批判でである。 このうえで,<見えないもの>を退ける思想・哲学としてのプラグマティズムの特徴は,軽快さにある。 「観念論批判」「形而上学批判」は,自らミイラ取りになって,ズブズブの観念論・形而上学になりやすいのだが,これの手前できちんと止まることを方法論にするのが,プラグマティズムである。 <見えないもの>を立てることを退ける思想・哲学として,わたしがプラグマティズムと併せて挙げたいものに,道元の『正法眼蔵』の中の「現成公案」がある。 「現(うつつ) のむこうに<見えないもの>をさがそうとするのは,錯誤だ」「現で既に成っている」が,軽妙に語られる。 以下は,わたしが「数学的問題解決論と合理主義的オリエンテーション (2) ──反合理主義-的オリエンテーション」(1993) の中でメモした,「対応説」へのプラグマティズムの対し方である (pp.65,66):
ここで,表中のことばは R. Rorty のつぎの二書の中からの引用である: この主題に関連するむかしの論考: |