Up | 「生きて働く力」 | 作成: 2013-08-12 更新: 2013-09-06 |
この「教育の社会化」「人間教育」は,いまは「生きて働く力」の標語を以て学校教育の形になっている。 ここで,「生きて働く力」は,作用「生きて働く」の作用主である。 《学校数学は,作用主「生きて働く力」の陶冶である;学校数学は,出口に「生きて働く力」を掲げ,「生きて働く力」の陶冶のプログラムとして構成されねばならない》というわけである。 この考えは,「数学の教え込み」を自分の対立概念にする:
この現象は,歴史的に「形式陶冶説批判」の方から逆照射して見るとき,ひじょうに興味深いものがある。 というのも,「形式陶冶説批判」にあっては,作用主陶冶は批判されるものであったからである:
「作用主陶冶」が「人間教育」の側に移ったのは,どのような事情・機序によるのか? 本論考は,「作用主陶冶」が「人間教育」の側に移った事情・機序として,形式陶冶説批判陣営のソーンダイクへの傾斜を挙げる。 ソーンダイクは能力説を批判した者と受け取られているが,その内容は「能力説」を「分析的能力説」に進めたというものである。 簡単に言ってしまえば,能力説の「‥‥する力」を細かくしたのである。 「同一要素説」の本質は,これである。 こうして,形式陶冶説批判でもって<数学を>を批判した側の系統は,<数学で>になり且つ「分析的能力説」を立場にするものになった。 「問題解決ストラティジー」は,まさにこの「分析的能力説」を改めてやったのである。 形式陶冶説批判がソーンダイクに傾斜したのは,なぜか? 形式陶冶説批判は,学校数学に「正しい教育」を求める。 そこで,能力説の漠然とした能力像ではなく,「正しい教育」を導くところの分析的な能力概念を求める。 そして,ソーンダイクがこれを与えてくれている,と見た。 また,つぎのことを,この種の「捻れ」形成の一般的メカニズムとして,一応併せ考えておく:
|