「形式陶冶」は,いまは作用主陶冶/能力説に転じられている。
「形式陶冶」を作用主陶冶/能力説に転じたのは,作用主陶冶/能力説の論難を以て「形式陶冶」批判に代えるためである。
作用主陶冶/能力説の論難を以て「形式陶冶」批判に代える理由は,作用主陶冶/能力説の論難がたやすいからである。
能力説 (「作用主→作用」) に対する『研究』の批判は,形而上学批判である。
翻って,『研究』は,形而上学批判が能力説批判として成立すると考えている。
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「元来吾々の経験従て又学習は具体的一元的のものであって,其処には形式を離れた内容も無ければ,内容を離れた形式もない。
形式とか内容とかは,具体的な一元的な如実の経験に,吾等が反省を加えて抽象した単なる概念である。
吾等の経験に於て内容を離れた形式が存在すると云うが如きは,極めて幼稚な形而上学的の考である。
(『研究』, pp.37,38)
凡そ経験に於ける形式と内容とは具体的には一如である。
能力説に依れば吾々の精神には,作用に対して作用主としての能力があるというのであるが,‥‥
作用ある以上作用の主があり,現象ある以上その現象を惹き起す主がなくてはならぬというのは,幼稚な形而上学に過ぎない。
‥‥
作用の外に作用の主はない。現象の外に現象の主はない。
作用の外の作用の主,現象の外の現象の主は,概念による分析の結果であって,事実に当るものではない。
‥‥
推理とか判断とかいうのは,‥‥決して推理力とか判断力とか云わるべき能力が本来実在して居って,その特殊能力が発現したのではない。」
(『研究』, p.38)
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作用主陶冶批判は,能力説批判よりずっとたやすいものになる。
なぜなら,作用主陶冶は能力陶冶であり,その能力は日常語で「‥‥する力」と表現されるものである。
「‥‥する力」の陶冶は,「‥‥する」ができる者の実現である。
しかし,「‥‥する」の論理的外延は無限である。
そこで,作用主陶冶批判は,ひとが行いにおいていろいろ抜けていることを指摘すれば済む:
『研究』のつぎのくだりは,これを行っているところである:
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論争を盛ならしめた第三の,而して最近の理由は,形式的陶冶の実際的効果に対する常識的の懐疑である。
アダムスミスは国富論を公にして,英国の富は為に世界に優位を占むるに至ったのであるが,アダムスミス自らは,常に赤貧洗うが如き苦境にあった。
一国の富を支配するもの,必ずしも自家の富を増殖し得ざりしは何故であろうか?
科学者ニュートンは,書斎に出入する大小二疋の猫の為めに,屡々椅子を離れてドアを開閉する煩を脱しようとして,一策を案じた。
即ち彼は大猫の為めに大きな穴を,小猫の為めに小さな穴をドアに穿ったのである。
大きな一個の穴は小猫の通路をも兼ねるであろうということが,ニュートンともあろう大科学者のあの鍛えられたる頭脳が気付かなかったのは何故であろうか?
プッシングという書物は上に掲げたような多くの物語を物語っておる。
斯かる物語が形式的陶冶の不成立を宣言する根拠であると云うのではない。
私はただ斯かる常識的の着想が,形式的陶冶に対する一世の懐疑的傾向を助長した事実上の一理由であったということをここに述べるのである。
(『研究』, pp.36,37)
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