「形式陶冶説批判」,『研究』は,当時の学校教育に対し
「深刻な問題がありながら,形式陶冶を名分にしてこれを是認している」
の見方をするところから,学校教育批判を「形式陶冶」批判として行うものである。
これは,「行いが悪いのは,どう行ったらよいかをわかっていないから」ではなく,「行いが悪いのは,思想が悪いから」の立場に立つということである(註)。
そこで,「形式陶冶説批判」の最初のステップは,「行いが悪いのは,思想が悪いから」の論として,「教育がなってない」を「形式陶冶」に溯行/還元することである。
つぎの論述は,これに当たる:
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形式的陶冶を発展せしめた第三の理由は,凡そ自己の仕事を正義付けようとする人間自然の性情である。
形式的陶冶の成立は,同時に教育の万能を意味する。
蓋し,教育の客体としての児童が将来如何なる環境に身をおくかは殆ど予想することが出来ない。
假りに予知し得るとするも,そは児童により全く個別的であって,その間に一致点を見出すことは殆ど困難と云わざるを得ない。
又假りに一致点を見出し得るとするも,其の一致点が時間的に急激に変転して行くといくことは,苟くも現代社会生活の変革を目撃するものの何人も否み難い所であろう。
故に若し教育の中核を内容の伝達にありとするならば,教育は到底児童に対して将来の社会生活を保障することが出来ない。
然るに形式的陶冶論よりすれば,将来児童が如何なる環境に身をおくか,又その環境が如何に百面相であるか,又その社会の変革が如何に急激なるかは敢えて問うところではない。
形式的陶冶はあらゆる具体的事情を超越して作用し得る能力そのものを教養するからである。
詳言すれば形式的陶冶は教材の内容の如何に拘らず,只その教材の取扱方によって一般的能力を教養し,以て児童将来の如何なる生活をも準備するからである。
凡そかかる見地に立つ程,教育者の一々の仕事の正義付けらるることはない。
吾等は形式的陶冶という教育者の一々の作業を正義付けんとする学説が,一個の信仰とさへなるに至った道行きを辿るとき,其処に明かに教育者が自己の要求を理想化し,理想化せる要求をさながら投射して客観化し実在化した形跡の歴然たるもののあるを忘れてはならない。
(『研究』, pp.18,19)
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註 : |
どうして「どう行ったらよいかをわかっていないから」ではなくて「思想が悪いから」になったのか?
理由としては,つぎのようなことが考えられる:
- 「行いが悪いのは,どう行ったらよいかをわかっていないから」という考え方は,当時普通の考え方ではなかった。
- 批判/論争では,相手の思想が自分の前面に出てきた。
- 「思想が悪い」の論をきちんとつくることが大事と考えた。
- 「思想が悪い」の方が,論じやすい。
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