Up | 学校数学の捉えに弱さ:要旨 | 作成: 2013-08-14 更新: 2013-08-15 |
教育がなっていない学校教育に対する批判の形は,つぎのものである:
「教材をこういう内容にしてこういうふうに教える」は,「形式陶冶」と対立するものではない。 教育は,すべからく「形式陶冶」である。 「教材をこういう内容にしてこういうふうに教える」で以て改善された教育も,「形式陶冶」である。 「形式陶冶説批判」が批判した学校数学は,ユークリッド幾何中心の学校数学である。 この学校数学にしても,批判の形は,先ずつぎのものである:
教育には,下手と上手がある。 教育を知らない者は,下手をやる。 学校数学の場合,「教育を知らない」は,つぎの2通りである:
しかし,「形式陶冶説批判」,『研究』は,教育批判を「形式陶冶説批判」のはなしにした。 批判の対象を「思想が悪い者」にして,その思想を形式陶冶説にしたわけである。 これは,まったくの筋違いの論を始めたということになる。 どうしてこういう展開になるのか? 教育がなっていない学校教育を批判する側も,同じく「<教える>がわからない者」だったからである。 教える内容を改めれば教育がよくなる,というのではない。 思想を改め教える内容を改めれば教育がよくなる,というのではない。 「教育改造運動」では,「関数」教育が象徴になった。 しかし,「関数」にしたところで,<教える>がこれに伴わなければ,何も変わらないわけである。 「形式陶冶」の思想は,確かに「教えるものは何でもよい」に通じる。 しかし,「教えるものは何でもよい」は,「教えるになっていなくてもよい」ではない。 このあたりがわかるためには,年齢を重ねる必要がある。 『研究』は,<教える>がまだわからない者である。 《「教えるものは何でもよい」は「教えるになっていなくてもよい」ではない》が,まだわからない者である。 こうして,『研究』は,「教育がなってない」を「形式陶冶」批判にしていくことになる。 |