Up | 「進歩」と無縁 : 教員の場合 | 作成: 2013-01-02 更新: 2014-07-07 |
学校数学に関しては,教員は進歩しない。 教員は,過去の教員の到達レベルに到達できるかできないかである。 「超える」は並大抵のことでない。 先人のレベルを超えることがあるとしても,それは極く僅かの者が極く僅かに超えるというものである。 全体に影響するところではない。 先人の経験値のうちには,後進が学習できるものがある。 しかし,このことに,「後進は先人を超える」の含蓄はない。 実際,このときの「学習できる」の意義は,「他のことに振り向けられる時間をもてるようになる」である。 そして,後進が「他のことに振り向けられる時間」を持てることによって先人を超えることになるかといえば,そうはならないのである。 なぜか? 「他のことに振り向けられる時間」は,「超える」に関しては無用・無駄に使われるからである。 ──無用・無駄に使うつもりは毛頭無いが,結果として,無用・無駄に使った格好になるのである。 (2) 教員は進化する 杉の桶がプラスチックの桶になることは,桶の進歩ではなく,桶の進化である。 杉の桶づくりの技では,後進は先人を超えられない。 そしてそもそも,後進は先人の歩んだ道を歩む者ではない。 先人とは別の道を歩む/歩んでしまう者である。 教員は進歩しないが,進化する。 いま教員は,<数学の授業>指向をますます弱める傾向にある。 即ち,算数・数学科は,いまは<生きる力の陶冶>を行う科目ということになっている。 <生きる力の陶冶>に従来の学校数学の内容を素材として使うというのが,算数・数学科に対するいまの教員の構えである。 これまでも学校数学が数学の授業であったためしはないが,いまは明確に数学の授業から離れようとしているわけである。 そしてこれは,教員の進歩ではないが,進化である。 いまの教員は,<教える>を失くしてきているが,これに換わる分,<楽しい授業>や<生徒同士の話し合いが中心になる授業>への傾倒を強くしている。 これも進化である。 現前の教員は,以前の教員とは別ものである。 そしてこれは,どの時代で言っても成り立つ命題である。 進化に,是非はない。 進化の問題に価値判断を持ち込むことは,見当違いである。 |