Up | 系は,個の<自分本位>の均衡 | 作成: 2009-09-08 更新: 2014-07-02 |
学校数学は,人の<生きる>の系として存在している。 そこに棲む者にとって,学校数学は所与であり,自分の<生きる>の場である。 学校数学での個の<生きる>は,《自分のできることを行う》である。 《自分本位でいく》である。 人は,自分の《学校数学を生きる・学校数学に生かされる》を,自分の好ましい形にしようとする。 この行動は,「個の多様性」に応じて,多様なものになる。 学校数学の現前は,この多様性の均衡相である。 <生きる>は,<生きる>ための「何でもあり」を現わす。 実際,自分の<生きる>は自分の周囲との調整である。 このメカニズムが,全体として,<生きる>の「何でもありを以て均衡」を現す。 そしてこれが,学校数学の「何でもあり」を現わす。 ( ![]() 現前の学校数学は,「これが数学教育か?」といぶかしむようなものである。 そして,こうなって当たり前なのである。 人は,自分の《学校数学を生きる・学校数学に生かされる》を,自分の好ましい形にしようとする。 この結果が,学校数学の現前だからである。 よくよく留意すべし。 人は,数学の素人である。数学教育の素人である。 数学の素人,数学教育の素人が,《学校数学を生きる・学校数学に生かされる》を自分の好ましい形にしようとし,行動する。 この結果である学校数学は,理の当然として,数学教育から外れたものになる。 学校数学は,人の<生きる>の手段である。 手段として成立していれば,人にとってそれは「是」である。 逆に,学校数学を数学教育にしようとして却って人が係われないものにしてしまうことは,人にとって「非」である。 よって,現前の学校数学は,「是」なのである。 ──「この他にはない (No more than this)」 |