「学校数学の勉強は何のため?」の問いを立てる/発する主体に,つぎの2通りがある:
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- 勉強の当事者である個人 (生徒)
- 学校数学の成果を回収する組織 (国,社会,経済団体等々)
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個人は,勉強の意味/理由不明から,「学校数学の勉強は何のため?」の問いを立てる。
組織は,組織の論理を「学校数学に対する社会の要求」の形に仕立てるとき,「学校数学の勉強は何のため?」の問いを立てる。
「社会の要求」は,道具主義と同じく,教育の裾野主義になる。
実際,「社会の要求」は,これに応えない/応えられない者を多数現す。
そしてこの<多数>は,<学校数学が無駄になってしまう者>の<多数>である。
一方,個人は,自分が属する組織の論理 (「社会の要求」) に自らを従わせる。
生徒の側からの「学校数学の勉強は何のため?」は,組織の論理の「「学校数学の勉強は何のため?」にはぐらかされ,散らされる。
本論考は,生徒の側からの「学校数学の勉強は何のため?」を保持して,これの答えづくりを主題化する。
註1: |
「社会の要求」は,学校数学を改革主義で考えるスタンスになる。
改革主義とは,つぎのものである:
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「現状をこのように改めるために,
学校数学はこのように改めることが必要。」
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註2: |
経済主義は,「社会の要求」を立てる組織の論理の一例である。
経済主義の「学校数学の勉強は何のため?」は,つぎのようになる:
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「われわれの生きる場は経済社会であるが,学校数学はここで生き残るための競争力を養う。」
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経済主義は,学校数学目的論の主流の要素である。
学校数学目的論の主流とは,つぎの流れに現されているところの学校数学目的論である:
「数学的考え方」→「数学的問題解決」→「数学的リテラシー」
社会をリードするものが,教育もリードする。
それは,経済主義である。
経済主義の考える教育は,競争力陶冶である。
今日では,その競争力は「グローバル社会で勝ち抜いていく競争力」である。
「数学的リテラシー」は,この競争力陶冶を謳うものである。
それは,OECD PISA の経済主義と連携している。
経済主義に問われるのは,教育の普遍的意味の閑却である:
「競争力が,教育の考える<個の自己実現>の形なのか?」
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