本論考が立てる「数学の勉強は何のため?」のストーリーは,つぎのものである :
- 「数学の勉強」は,一通りでない:
- 個人にとって「数学の勉強」は,先ず学校数学の勉強である。
この学校数学の勉強は,数学の勉強であるわけではない。
「数学の勉強」には,学校数学の勉強と区別される数学の勉強がある。
- 学校数学の勉強は,「何でもあり」を現す。
即ち,学校数学は,現前においても考え方においても,多様である。
- 学校数学の勉強と区別される数学の勉強の方も,多様である。
- 一般者の「数学の勉強」は,勉強した内容を使うようになるものではない。
勉強した内容も忘れていく。
この一般者の「数学の勉強」に対し,「数学の勉強は何のため?」を主題化する。
- 「数学の勉強」は,勉強した内容が自分のうちで無くなっていくことの一方で,自分のうちで残るものがある。
「無くなって残る」を,「堆積と風化」に模す。
「堆積と風化」を,「成長」モデルとする。
「数学の勉強は成長の糧」のことばは,この「成長」の意味で解する。
- 「残るもの」を表すことばは,「傾向性」が適当である。
「成長」は「傾向性の形成」として論述するところとなる。
- この傾向性形成は,「形式陶冶」である。
即ち,傾向性は「if(状況)─then(行動)」で機能的に表現されるが,この「if─then」が「形式」にあたる。
こうして,「形式陶冶」が「数学の勉強」の意義になる。
- 本論考の「形式陶冶」のことばの用い方は,「形式陶冶」の既存の論との対照を以て明らかにしていくことになる。
また,本論考は,「形式」の論述を自ら課題として負う。
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