Up おわりに 作成: 2013-01-15
更新: 2013-01-15


    学校数学は,その歴史の長いことを考えれば,ずいぶんと進歩しているものと思いたくなる。 しかし,現実はそうではない。
    教員も,進歩しない。
    教員は,先人の歩んだ道を歩み,先人が終えた地点に到達したかどうかといったふうに終わる。

    ひとが学校数学の営為に臨むとき,きまって「改善・改革」の構えで立つ。
    しかし,「改善・改革」は,成果を現さずに終わる。
    成果を現わすとしても,これは蓄積されない。
    「改善・改革」以前に戻ってしまう。

    どうしてこのようなのか?
    本論考は,これをつぎのように捉える:
       学校数学に対する「改善・改革」の構えには,学校数学の錯認がある。
    実際,学校数学は,<攪乱と均衡回帰>の繰り返しを生きる系である。

    「改善・改革」は,対象を過少に見る。
    自分の狭量で対象を判じ,対象を矮小化する。
    対象に自分を投影して対象を考える構図になり,自分本位で終始することになる。

    本論考は,学校数学に対し<生きる>系の捉えをする。
    この捉えは,「改善・改革」が陥っている自分本の構図を退けるものである。
    学校数学の営為に臨む者は,<生きる>系としての学校数学の中に存る者である。
    教員は,<生かされている>という形で自身の<生きる>を現す存在である。

    教員はどのように生かされているか?
    学校数学の<攪乱と均衡回帰>の運動を現すものとして生かされている。
    教員は,攪乱される存在であり,攪乱を自分から必要とする存在である。

    一方,教員は,自身の<生かされている>を見ない者である。
    攪乱を,自身の主体的思惟・行動,自身の主体的「改善・改革」であると錯覚する者である。
    この「主体的」の構造は,「学校数学/教員は進歩しない」を説明する。

    本論考の趣旨は,「学校数学/教員は進歩しない」を道理とすることである。
    「進歩すべきもの」として学校数学/教員に臨む思考様式を退けることである。
    学校数学/教員は,専ら<生きる>をやっている。
    <生きる>は,進歩することではない。
    そして,<生きる>に「進歩」をあてはめることは,<生きる>を矮小化することである。