「学校数学は何のため?」の答えは,論理の上では形がいろいろあり得ても,実際的なものとなると,形が自ずと限定されてくる。
すなわち,「学校数学は何のため?」の答えは,他者の論難を想定して,完備を期してつくるものになる。
行うことは,理論構築であり,論証である。
そして,完備を期してつくるものは,自ずと定石・定番・定型を現す。
ネットでの「学校数学は何のため?」の議論は,ありとあらゆる形を現すものになる。
これは,自分が匿名でいられるためである。
「匿名」の意味は,「論難を受けることはないので,物が言える」である。
この定型は,「形式陶冶」が中心におさまる。
以下が,こうなる理由である:
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「学校数学は何のため?」の答えづくりは,答えに つぎのことを含ませようとする:
《生徒の側からの「学校数学の勉強は自分にどんな得がある?」の問いに対し,
すべての生徒に「学校数学の勉強は,あなたに得がある」と答える。》
実際,学校数学を合理化する形は,少なくとも基本においては,これである。
そしてこのとき,「得」を「数学実用」とすることはできない。
現前に反するからである。
「数学を勉強して,数学でないものを得る」を答えの形にしなければならない。
この「数学でないもの」に何があてられる?
「形式」を,これにあてる。
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