Up | 「何でもあり」の構造/要素 | 作成: 2012-09-30 更新: 2012-10-01 |
また,「何でもあり」の助長に機能する要素や,そのときどきの「何でもあり」の固定化に機能する要素がある。 (1) 数学専門性の欠如 →「何でもあり」 教員は,数学専門性を欠いている。 これは,教員の不勉強ということではなく,教員養成課程および教員職が数学専門性の陶冶と両立しないということである。 数学専門性を欠く教員が算数・数学科の授業をつくるとき,それは「新作」づくりになる。 そして「新作」は,「何でもあり」を現していく。 数学専門性が基盤にある授業の場合は,数学が「古典」になる。 数学の授業は,古典の語りである。 さらに,古典を語る力 (授業力) は,数学専門性とはまた別のものである。 この力は,語る力の鍛錬と古典に対する理解深化を合わせた修業によってつくられる。 修業の成果はなかなか現れてこない。 修業は,腰を据えじっくり時間をかけて取り組むのみである。 数学専門性を欠く教員は,もとより古典としての数学を持たない。 よってなおのこと,数学の授業を古典の語りとして行うことはできない。 教員は,「新作」をつくり,これの語りを授業とする。 実際,これを授業のやり方とするのみである。
(2)「個の多様性」への対応 →「何でもあり」 数学の授業は,生徒と教員の両方に「個の多様性」がある。 この「個の多様性」の上にのせる数学の授業は,自ずと「何でもあり」になる。 さらに,授業は生徒の「個の多様性」に進んで応じていくものであるから,「何でもあり」は積極的に現していくものになる。 ──以下,このことについて。 「生き物」には,「成長行動」の含意がある。 人は,成長行動をするものである。 成長行動は,「修業」である。 学校は,修行道場としてつくられるものである。 この修行道場の中で,各種修業が用意される。 算数・数学科は,用意された修業専科のうちの1つである。 教師は,自分が思う「生徒のためになる数学」,あるいはさらに「数学よりもっと生徒のためになるもの」を,生徒に授業する。 ここで,「生徒のためになる」の最初の意味は,「生徒が受け取れる」である。 実際,受け取れる物を与えることは,修業が起こるための必要条件である。 「受け取れる・受け取れない」を考えることは,「個の多様性」を考えることである。 修業の実現は,<「個の多様性」を条件とする修業>の実現である。 そして,「個の多様性」に応ずることは,「何でもあり」をやることである。 (3)「数学で」 →「何でもあり」 学校数学には,独特の機能と役割をもつ出口論がある。 「数学的考え方」「数学的問題解決」「数学的リテラシー」と続いてきている出口論であり,出口論主流として存在している。 出口論主流は,およそ20年ごとに,出口論の模様替えを行う。 模様替えの意味は,プロジェクト/ムーブメントのリセットである。 「数学的考え方」「数学的問題解決」「数学的リテラシー」の変遷は,この模様替えである。 プロジェクト/ムーブメントの機能は,数学教育界の活力をつくり出すことである。 プロジェクト/ムーブメントは飽きられ,効果が減衰する。 このとき,プロジェクト/ムーブメントをリセットし,新しく装いしたプロジェクト/ムーブメントによって数学教育界が再び活力をもてるようにする。 「活力」の内容は,「新作」開発である。 出口論主流のプロジェクト/ムーブメントは,「新作」開発を盛んにすることが機能・役割である。 このとき,「新作」開発は,「数学で」をストーリーの形にする。 実際,「数学で」だと「新作」開発に入りやすい。 「数学で」の「新作」開発は,「何でもあり」に進む。 数学教育界の活力をつくり出すことを自身の機能と役割にする出口論主流は,「何でもあり」を自身の機能と役割にするものなのである。 (4) 検定制度 → 数学でない学校数学の固定化 学校数学の内容は,『学習指導要領』によって大枠が定まり,これに準拠してつくられる検定教科書によって仔細が定まる。 これは,結果的に,現前の数学でない学校数学の固定化に機能する。 |