Up 教員は,「導入・展開・まとめ」をやらない 作成: 2012-09-28
更新: 2012-10-11


    授業力は,修業して得られていくものである。
    一般に,修業は,形(かた) を極める修業である。
    そして,授業力をつける修業は,「導入・展開・まとめ」の授業の基本形が,形(かた) である。

    しかし,教員は,「導入・展開・まとめ」を行わない。
    教員は,「導入・展開・まとめ」を初心者コースのように思っている。
    あるいは,授業オプションのように思っている:
      「導入・展開・まとめ」はやろうと思えばいつでもできる。
      やるかどうかは,ケース・バイ・ケース。
    そして,輪郭のボヤッとした授業,形のない授業をしていることを,自分が融通無碍なレベルに達しているかのように思っている。
    その授業は,「何の授業かわからない授業」である。


    「導入・展開・まとめ」は,教員が思っているのとは正反対のものである。
    これは,「形(かた) を極める」の「形(かた)」である。
    教員がやろうと努めてもできないものである。

    「導入・展開・まとめ」を行うことは,教員にとって自分の授業力の無さをはっきり暴露することである。
    例えば,「導入」の「主題がどのようなストーリーの中に位置づくものかを示す (「主題の意味」)」を行うことは,自分が主題をわかっていないことを暴露することである。
    教員が「導入・展開・まとめ」を行わないのは,自分の授業力の無さの暴露が嫌だからである。 そして,合理化の心理が,自分をつぎのような考え方をする者にしていく:
      やろうと思えばいつでもできる,やらないだけだ
      「導入・展開・まとめ」は,初心者レベルだ


    なお,「導入・展開・まとめ」が行われないことについては,さらにつぎの場合も考えに入れておく必要がある:
    1. 「導入・展開・まとめ」を知らない
    2. 思想的立場から,「導入・展開・まとめ」が却けるものになる

    a.「導入・展開・まとめ」を知らない
      学校教員養成課程で「導入・展開・まとめ」を教えられなかった学生は,「導入・展開・まとめ」を知らないで教員になる。
      その後も「導入・展開・まとめ」を教えてくれる者が現れなければ,「導入・展開・まとめ」を知らないままとなる。

    b. 思想的立場から,「授業の基本形」が却けるものになる
      学校教育の思想のうちには,「教える」を罪悪視するものがある。
      「導入・展開・まとめ」は「教える」の基本形であるので,この思想においては却けるものになる。