Up 教員は,授業力がつかない 作成: 2012-09-20
更新: 2012-09-22


    教員の授業力は,修業の形がなっていても,はかばかしくは向上しない。
    教員は,ずっと,授業力が弱いままである。
    そしてこれは,このようである他はないというものである。
    授業力ははかばかしく向上しなくて当然なのである。

    一般者は (実は教員も含めて),《授業力ははかばかしく向上しなくて当然》という認識をもたない。
    授業力の低さを,意識・意欲の低さのせいにする。授業技術を知らないことのせいにする。
    そしてそこから,「教員の授業力の低さに対するソルーションは,意識改革と研修制度!」の考えに行ってしまう。


    「改革」の気運の醸成は,簡単である。
    そして,「改革」の気運は,「改革」の気運で終わる。
    授業力のほんとうの向上については何も形を残さないで,終わる。

    これは,偏見で言うのではない。
    職業柄ずっと「教育改革プロジェクト」というものを見てきて,そして自分でもいろいろやってきて,このように言うのである。
    特段の公平感を以て,このように結論するのである。

    「改革」は,「改革」を何度か経験することによって,その意味・機能・機序がわかってくる。
    「改革」の意味・機能・機序がわかってくると,「改革」には飛びつかなくなる。
    「改革」に飛びつくのは,「改革」に新しく出会う者たちである。
    改革を行う者は,若者・よそ者・ばか者」は,まさに言い得たことばなのである。


    授業力は,修業の形がなっていても,はかばかしくは向上しない。
    経験の浅い教員は,自分の授業力の弱さをほんとうのところ認識できない。
    自分の授業力の弱さは「授業の難しさ」というかたちで思うところになるのだが,定年間近になった教員がきまって「近頃,少し授業がわかってきた」のことばを吐くのは,授業力の意味は経験を積むほどにわかってくるというものだからである。

    授業力の向上とは,詰まるところ,<見る>の向上である。
    そして,この<見る>には,<生徒を見る>と,<授業の主題を見る> (簡略して, <主題を見る>) がある。

    <生徒を見る>:

      学校教員養成課程の算数・数学科教育法科目は,学生に「指導案作成・模擬授業」を課し,これを授業力の陶冶とする。
      模擬授業では,最初のうち学生は,生徒役の学生を見る (この「見る」の意味は,「見る格好をする」) ことができない。
      次第に見る格好ができるようになるが,あくまで格好であって,見てはいない。
      当人は見ているつもりであるが,<見ているつもり>は<見ている>ではない。

      このことは,現職教員でも同じである。
      当人は生徒を見ているつもりであるが,<見ている>にはなっていない。

      見えることは,生徒に添うことができることである。
      生徒を無駄に扱い,ときに壊す,ということをしないで済むということである。
      定年間近になっての「近頃,少し授業がわかってきた」は,主にこの<生徒を見る>が少しわかってきたということである。

    <主題を見る>:

      教員養成課程で算数・数学科の授業案作成・模擬授業を課される学生も,算数・数学科を授業する現職教員も,授業内容になるところの数学を捉えられない。
      そして,捉えていないことをきちんと認識できない。

      即ち,当人は主題をわかっているつもりになる。
      自分にとっては既習内容であるから,自分はこれをわかっている」というわけである。
      わかっているつもりなので,授業を<わかっている自分>が<わからない生徒>に教えることだと定める。
      そこで,授業で生徒がわからないのは,教え方が悪いか,生徒の能力が低いから,ということになる。

      教職経験は,<生徒を見る>に関しては,はかばかしくはないが教員を向上させる。
      しかし,<主題を見る>に関しては,ほとんど向上させない。
      なぜか?
      <主題を見る>を向上させるものは,教科専門性の鍛錬である。
      算数・数学科だと,数学の勉強である。
      しかしこれは,教職にとって高負荷のものになる。
      よって教職は,教科専門性の鍛錬を含まないふうになっている。


    <見る>の難しさ・課題性は,「職人」を考えると理解しやすい。
    (実際,教員は「職人」である。)

    職人は,ずっと修業の身であり,そしてはかばかしく上達しない。
    何を修業しており,何がはかばかしく上達しないのかというと,<素材がわかる (「見える」)>を修業しており,そしてこれがはかばかしく上達しないのである。
    石職人の場合,新入りに「この石をしっかり見ろ」と言っても,新入りは「見る」がどういうことなのかわからない。
    素材をいじらせれば,素材に関係なく自分の思いを行う。
    素材を無駄に扱い,さらには壊す結果となる。
    素材が見えるとは,素材に自分を添わせることができるということである。
    そして<素材に自分を添わせる>を通じて,素材の価値がわかるということである。

    「見る」の意味は,「現れていないものを見る」ではない。
    見るべきものは,現れている。
    しかし,現れているのに見えない。
    現れているものが見えるようになるのは,修業の賜ということになる。

    授業において教員は,生徒と主題の二つを「素材」とするところの「職人」である。
    生徒はそこに現れているが,教員はこれを見ることができない。
    主題はそこに現れているが,教員はこれを見ることができない。

    生徒の方は,教職経験を積んでいくことで,その分,だんだんが見えるようになる。
    そして定年間近になって,「近頃,少し生徒が見えるようになってきた」の実感を持てるほどになる。
    一方,主題は,教職経験を積んでいくことでだんだん見えるようになるというものではない。
    定年間近になっても,「近頃,少し主題が見えるようになってきた」にはならない。


    <見る>が向上することは,授業がどうなることか?
    授業が真面目になるということである。
    授業は,<わかる>を実現することが目的である。 この<わかる>実現に対し真面目になるということである。

    授業は,<わかる>を実現することが目的である。
    授業の何たるかを知らない者は,しようがなくて,授業づくりを劇的空間をつくることにしてしまう。
    <わかる>実現の必然手法として劇的空間づくりになるのならよいが,そうでないなら劇的空間は無用のものである。

    授業は,下手がよい。
    実際,<真面目>の形は,「下手」である。
    「下手うま」が,授業の境地である。


    職人の修業に近道はない。
    教員職の修業に近道はない。
    教員はずっと授業力が弱いままである。
    授業力の弱さは教員の宿命である。

    生徒は無駄に扱われ,ときに壊される。
    このことに対し生徒の「不幸」を読むのは,当たらない。
    素材として無駄に扱われることは,人・物の普通のあり方である。
    子どもだからといって,特別扱いとはならない。
    実際,「教員の授業力の低さ」は,「子どもを特別扱いしたくとも能力的にできない」を含意する。
    ──<無駄に扱う>のレベルでは,まだ警鐘を発するにはならない。警鐘を発することになるのは,深刻に<壊す>が現れたときである。