Up | 「余計・無駄をやって肝心をやらない」 | 作成: 2012-10-12 更新: 2012-10-12 |
教員は,長く教員をやっている者も,授業は「余計・無駄をやって肝心をやらない」である。 「教員はいつまでたっても授業の素人」というわけである。 肝心をやるのが,授業力である。 授業力は,修業によってつける。 授業者の道は,修業道である。 修業の到達点は,形(かた) である。 修業を方向づける意識の形は,「形(かた) を身につける」「形(かた) を極める」である。 修業の形は,形(かた) の実践である。 そして,算数・数学科の教員の「形(かた) の実践」は,「導入・展開・まとめ」の授業形の実践である。 そこで,「余計・無駄をやって肝心をやらない」は,つぎの二通りの意味が考えられる: 「修業が何かを知らないで過ごしている」とは,修業の形が「導入・展開・まとめ」の実践であることを知らないで過ごしているということである。 このタイプの者は,授業者としての伸びしろの無い者である。 「修業の道は長い──いつまでも「形(かた)」の境地に到れない」とはどういうことか。 「形(かた)」の形成は,いわば風化造形である。 風化造形は,直接これをつくろうとしてつくれるものではない。 先ず,土を積んでいく。 堆積を風雨に曝す。 長い年月をかけて,風化造形が現れる。 結果として見れば,せっせと積んだ土の大部分は余計・無駄なものになっている。 風雨に流されてしまい,いまは無いものである。 しかし,やがて無くしていくものをせっせと積むことがなかったなら,造形もなかったわけである。 余計・無駄は,肝心に至る必要事なのである。 余計・無駄を跳び越えて肝心に至ることはできない。 「修業の道は長い──いつまでも「形(かた)」の境地に到れない」とは,長い余計・無駄の期間を経た果てに肝心がやってくるということである。 修業の道は長い。 しかし,この道を引き受けている教員は,授業者としての伸びしろのある教員である。 翻って,授業者としての伸びしろのある教員とない教員はどこで区別できるかというと,授業を「導入・展開・まとめ」の実践にしているかいないかである。 このとき,現前の教員は,授業者としての伸びしろのない教員である。 これが,現実である。 |