数学教育学に入ってくる者は,学校数学ベースと数学ベースの2通りになる。
学校数学ベースは,自ずと<問題解決>派である。
数学ベースは,<生成>派である。
ただし<生成>は,進んでいくほど生成の前後関係の押さえが困難になってくる。
よって分野によっては,<問題解決>の色合いが強くなる。──解析学など。
<生成>派は,数学教育学の中で少数派になる。
これは,系のダイナミクスに拠るところである。
そのダイナミクスを,「数学教育学の歴史」として概観しておく:
- 学校数学は,数学者が学校数学をつくるところから始まる。
このとき,作業母体として数学教育学の学会がつくられる。
したがって,数学教育学は,数学ベースから始まる。(人物では,藤沢利喜太郎)
- 学校数学ができると,数学教員が学会に入ってきて,学校数学はどうあるべきかの考えを述べるようになる。
彼らは,まだ数学ベースである。
- 学校教育が進展する。
数学教育学には,教育畑・教育学畑の者が入ってくるようになる。(人物では,塩野直道)
また,もともと数学ベースだが,欧米の教育改革運動に触発されることもあって,形式陶冶のスタンスで数学教育を考えようとする者が,現れてくる。(人物では,小倉金之助)
- 数学教育学のこの傾向は,《数学教員養成が<学校数学を教える>になることで,数学教員が学校数学ベースになる》傾向と,循環する。
結果として,数学教育学は,学校数学ベースでないと居ても意味がないところとなり,数学ベースの者は次第に消えていく。
- 数学教育学が学校数学ベースになっていく流れは,過去に一度ストップすることがあった。
「数学教育現代化運動」である。
ただしこれは,その後の数学教育学の進捗に,ほとんど痕跡を残していない。
- なお,これと同時期,数学教育協議会の「数学教育改革運動」があった。
こちらの方は,学校数学の基本領域「数」の内容を改めさせることに成功した。
特に,数学教育史は,学校数学成立史である。
ただし,学校数学成立史は,学校数学の完結に至るものではない。
実際,学校数学は,<問題解決>と<生成>の間を絶えずふらふらするものになる:
<問題解決>では,教育課程が成らない。
<問題解決>のこの不具合に対し,反動として,<生成>への指向が起こる。
それは,「基礎・基本」のようなスローガンを以て現れる。
しかし,<生成>も,教育課程が成らない。
<生成>のこの不具合に対し,反動として,<問題解決>への指向が起こる。
それは,「生きる力」のようなスローガンを以て現れる。
「<問題解決>では教育課程が成らない」の内容は,つぎのものである:
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<問題解決>仕様で学校数学を構成するのは,限度がある》
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小学算数でも,<問題解決>仕様は限度がある。即ち,<問題解決>仕様と馴染まない主題がある。
中学数学,高校数学と進むと,<問題解決>仕様はいよいよ無理となる。
そして,<問題解決>仕様が無理となる時,それは,これまで<問題解決>仕様で学校数学をやってきた生徒が,授業についていけなくなる時である。
「<生成>では教育課程が成らない」の内容は,つぎのものである:
《 |
<生成>の学習は,論理的思考能力と忍耐を要する。
この学習についていこうとする/ついていける生徒は,ふつうでない。》
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