Up 参考:宮本常一『忘れられた日本人』 作成: 2018-10-24
更新: 2018-10-24


       pp.241-243 (岩波文庫ワイド版)
     伊勢のお札がふって、ええじゃないかとさわいだのもそのころであった。明治元年五箇条の御誓文の「(おのおの)その志をとげ、人心をして()まざらしめん事を要す」というのをとりまちがえて、方々のカカヌスミにいったのも、それから間もない頃であった。
     それまで、このあたりには一年に一度だけすきなことをしてよい日があった。同じ南河内郡磯城村の上の太子の会式(えしき)である。上の太子というのは聖徳太子の御廟のある所である。ここに旧四月二十二日に会式があって、この夜は男女共に誰と寝てもよかった。そこでこの近辺の人は太子の一夜ぼぽと言ってずいぶんたくさんの人が出かけた。
     寺のまえに高い灯籠(とうろう)をたて、参詣した人たちは堂のまえにつどうて、音頭をとり石搗(いしづき)みたいなことをした。
        「出せ出せや酒を、酒を出さねばヨーホーホーイ」
    というような音頭であった。
    そのぞめきの中で男は女の肩へ手をかける。女は男の手をにぎる。 すきと思うものに手をかけて、相手がふりはなさねばそれで約束はできたことになる。女の子はみなきれいに着かざっていた。そうして男と手をとると、そのあたりの山の中へはいって、そこでねた。これはよい子だねをもらうためだといわれていて、その夜一夜にかぎられたことであった。 ずっと昔は良家の娘も多かったが、後には柄のわるい女も多くきた。 この時はらんだ子は父なし子でも大事に育てたものである。
     翁も十五になったとき、この一夜ぼぼへいって初めて女とねた。それから後もずうっとこの日は出かけていったが、明治の終頃には止んでしまった。
     ところが明治元年には、それがいつでも誰とでもねてよいというので、昼間でも家の中でも山の中でもすきな女とねることがはやった。それまで、結婚していない男女なら、よぱいにいくことはあったが、亭主のある女とねることはなかった。そういう制限もなくなった。みなええ世の中じゃといってあそんでいたら、今度はそういうことをしてはならんと、警察がやかましく言うようになった。

       pp.29-35 (岩波文庫ワイド版)
     さて老人は馬上で一時間あまりの大半を馬方節をうたって来たのである。こちらは小走りにあるきながら、「盆踊りのうたもあるだろう」ときいてみる。「盆踊りはもうやんでしまったでね」「しかし歌はのこっているでしょう」「ないことはないが」「それを一つ」「それじゃ口説(くどき)でも一つ ‥‥」 老人はそれから盆の口説をはじめた。大江山口説だ。実にしっとりとしたものでそこには古い声明(しょうみょう)の口調がのこっているようである。祖父市五郎の話では口説は兵庫口説というのが一番古いものだということだった。祖父の口説はその兵庫口説の流れをくむものだということをきいたが、対馬の北端佐護の谷の老人から、祖父の口説の調子にほとんどかわらないものを、きこうとは夢にも思っていなかった。大江山口説というのは頼光が大江山の酒顚童子(しゅてんどうじ)を退治するまでのことをのべたものであるが、口説の詞章の中では比較的古いものではないかと思われる。
     老人はそれから、おつや清心、白糸くどきなどを口説いてくれた。
     ‥‥
     その翌日、この谷で一番歌の上手であったという鈴木老人をたずねていった。もう八十を四つもこえているが、隠居家の後の日かげで草履をつくっていた。「じいさんは佐護で一ばん歌が上手じゃちゅうからきかしてもらおうおもうて来たんじゃがね」「あんたァどこじゃね」「東京の方のもんじゃがね‥‥」「へえ!天子様のおらしゃるところか。天子さまもこんどはむごいことになりなさったのう」 それから私たちはまとまりのない世間ばなしをはじめたが、そのうち次第に気がのって来たと見えて、「一曲うたうかな」といって大江山口説を口説はじめた。年もとっており、息ぎれはするが、ゆうべの老人よりはたしかにうまい。さびのある声で、節まわしは実にいい。どこか浄瑠璃に似たところさえある。私は地面にあぐらをかいですわり、目をつぶってきいていた。しまいまでうたってしまうと「息がきれてのう、もうだめじゃ」とポツンといってあとはうたおうとはしなかった。
     対馬には島内に六つの霊験あらたかな観音さまがあり、六観音まいりといって、それをまわる風が中世の終り頃から盛んになった。男も女も群れになって巡拝した。佐護にも観音堂があって、巡拝者の群れが来て民家にとまった。すると村の若い者たちが宿へいって巡拝者たちと歌のかけあいをするのである。節のよさ文句のうまさで勝敗をあらそうが、最後にはいろいろのものを賭けて争う。すると男は女にそのからだをかけさせる。女が男にからだをかけさせることはすくなかったというが、とにかくそこまでいく。鈴木老人はそうした女たちと歌合戦をしてまけたことはなかった。そして巡拝に来たこれというような美しい女のほとんどと(ちぎ)りを結んだという。前夜の老人が声がよくてよいことをしたといわれたのはこのことであった。明治の終り頃まで、とにかく、対馬の北端には歌垣が現実にのこっていた。巡拝者たちのとまる家のまえの庭に火をたいて巡拝者と村の青年たちが、夜のふけるのを忘れて歌いあい、また踊りあったのである。
     そのときには嫁や娘の区別はなかった。ただ男と女の区別があった。歌はただ歌うだけでなく、身ぶり手ぶりがともない、相手との掛けあいもあった。鈴木老人も声がよいだけでなくきっとそういうことにかけてもこのあたりでは一ばん上手であったに違いない。
     その翌年、すなわち昭和二十六年にも私は対馬の調査にいった。そうして佐護に近い佐須奈(さすな)というところで、一ばん民謡をきいた。その夕方調査団長の渋沢先生のおともをして佐須奈へつくと、村の娘たちが歌舞伎踊りというのを見せてくれた。忠臣蔵の各段をうたにあわせておどるのだが、実に洗練せられている。それで、歌をうたっていた老女としたしくなって、ここにはずいぶん歌がたくさんあるはずだが、きかせてくれまいか、とたのむと、快くひきうけて、今夜来なさいという。
     宿でタはんをすまして待っていると、おそくなってよびに来てくれた。酒の一升びんをさげていって見ると、六十すぎのおばァさんが四人ほどあつまっており、ほかに若いものもいた。ばァさんたちに「あんたが口切りにまずうたわにゃァ」と言われるものだから、私は私の郷里の盆踊りの口説の一節をうたうと「よう似ている」とばァさんたちは喜んでうたいはじめた。「のどをしめして‥‥」といって酒を湯のみにつぐと、遠慮もしないで飲んで、それからうたい出した。いい声である。ノートを出しては気分がこわれるからと思って、ただきくだけにしたのだが,一人がうたって息がきれかかると次の人がうたう。歌舞伎芝居関係のものが多いのだが、必ず手ぶりがともなう。腰をうかし、膝で立って、上半身だけの所作が見ていてもシンから美しい。これがただの農家のばァさんとはどうしても思えない。座にいる若い男たちはばァさんたちにぼろくそにやっつけられる。この方は全くの芸なし猿だからである。きいて見ると、対馬は盆踊りの盛んなところで大てい各浦に盆踊りがあり、その中で歌舞伎の一こまもやり、盆踊りの場が民謡など身につける重要な機会の一つになっているのであるが、佐須奈ではどうしたわけか、盆踊りが早く止んだのだそうである。そういうことが年寄たちの持っているものを若いものにひきつぐ機会をすくなくさせたのであろう。
     相手がうたうとこちらにも歌を要求する。私はそんなに知っているわけではないけれど、とにかく、すすめられると三度に一度はうたう。歌合戦というものはこうしておこるものだと思った。とにかくだんだん興奮して来ると、次第にセックスに関係の歌調が多くなる。若い連中はキャアキャアいって喜ぶが、おばあさんたちはそれほどみだれない。夜がふけて大きい声でうたうものだから近所の人も家のまえに群がって来た。そうして三時ごろまでうたいつづけたのである。無論その聞には話もはずんだのであるが。それではじめてこの地方の歌合戦というものがどのようなものであったかおぼろ気ながらわかったような気がした。


  • 引用・参考文献
    • 宮本常一 (1960) : 『忘れられた日本人』, 未來社, 1960.
        (岩波文庫,1984,ワイド版 1995)

  • 参考ウェブサイト