Up | 中村元著『龍樹』が導く『中論』(存在論) | 作成: 2014-09-11 更新: 2014-09-13 |
中村元『龍樹』は,『中論』の言っていることはこうだを,『中論』注釈から導くものである。 わたしは,『中論』が「空観(くうがん)」のテクストだとしたら,確かに中村元『龍樹』が解説する通りだと見る。 思想は,単純である。 思想の大書は,一つのアイデアの膨大なパラフレーズ(繰り返し)であるか,そうでないとしたら,ひどく混乱し整理ができてなくて量が膨大になったものである。 思想を複雑に読む者・読みたがる者は,思想を知らない者である。 『中論』は,単純な思想である。 以下,中村元『龍樹』の解説に添って,この思想を簡単に述べてみる。 『中論』は,存在論である。 そして,<非実体>の存在論である。 空に雲がある。 その雲を捉えてみようとして,雲に近づいていく。 すると,雲は無くなってしまう。 雲という実体があるわけではなかった。 では,どうして雲があるのか? 水の粒が雲をつくっている。 そうか,水の粒が実体として有るものか! すると,今度は水の粒が,さきほどの雲の役どころにつく。 水の粒は見えなくなってしまう。 代わって,新たな実体を見出していくことになる。 このプロセスは,延々と続くように思える。 自然的存在に限らず,人にとっての物事の存在性はこのようである。 ということは,「実体として有るものは無い」ということか? しかし,「一切皆無」と言うと,またおかしいことになる。 雲や水の粒が現れていることの説明がつかない。 そこで,存在論は,「有るでもなく無いでもなく」の存在論でなければならない。 この存在論が,『中論』が説く存在論である。 「有るでもなく無いでもなく」を,「空」と称する。 『中論』の存在論は,「一切皆空」の存在論である。 『中論』の「中」は,「中道」の「中」である。 中道の存在論の「有るでもなく無いでもなく」は,有ると無いの二辺の中という趣で,中道である。 「有るでもなく無いでもなく」の存在論は,これの機序を説く。 機序は,「縁起」である。 再び,雲を例にする。 雲は,水の粒の「相依(そうえ)」で成っている。 雲を捉えようとしたら,水の粒の「相依」を見出すばかりである。 水の粒の「相依」が雲を現し,雲の形をつくっている。 この「相依していること」を,「縁起」を称する。 ものごとは,「縁起」で成る。 そしてこのときのものごとの存り様は,「有るでもなく無いでもなく」である。 「有るでもなく無いでもなく」の存在論のこの先の展開は? 「である」の形で述べられるようにすることである。 しかし『中論』は,「無分別」を以て,論を閉じる。 『中論』は,ウィトゲンシュタインの『哲学探求』を想起させる。 『哲学探求』の趣旨は実体論批判であり,『中論』と同じである。 語り口も,『中論』とよく似ている。 そして,「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」(『論理哲学論考』) を「言語ゲーム」のことばに乗せるかたちで,やはり「無分別」を以て論を閉じる。 |