Up | 『中論』(存在論) を科学にする形 | 作成: 2014-09-11 更新: 2014-09-13 |
この存在論を「である」の形で述べることは,間違った言い方をすることだからである。 「分別」は,この間違いを犯す構えである。 「無謬の者」を自分の役回りにする者は,「無分別」を以て論を閉じるのみである。 翻って,「無謬の者」を役回りにしていない者──間違いをやってナンボの者──は,「分別」に進めばよい。 科学者は,間違いをやってナンボの者である。 「分別」を構えとして「である」の命題をつくることが,役回りである。 「有るでもなく無いでもなく」の存在論の科学版は,既にある。 「ミクロ・マクロ」「複雑系科学」「オートポイエーシス」は,それである。 「ミクロ・マクロ」は,わたしはこれを「水の粒子(ミクロ)の相依である雲(マクロ)」の対象把捉法と解釈する。 「複雑系科学」は,「マクロ(系)・ミクロ(個)」の枠で「縁起 (個の相依)」を科学していることになる。 ただし,「複雑系科学」は,人のリアルな系に近づくには,ひどく遅々たる歩みである。 「オートポイエーシス」は,先回りして,「縁起」の系の理念形を示しているものと見なせる。 これらの「分別」は,「有るでもなく無いでもなく」の存在論の逸脱ではない。 マクロに対しミクロを実体的に立てることになるが,その実体性は「仮設」である。 実際,《ミクロはつぎには「マクロ・ミクロ」のマクロに替わる》を承知しているわけである。 そして「仮設」は,「中道」の方法そのものである。 わたしは,ここでさらに,「二諦 ──世諦・第一義諦」を「ミクロ・マクロ」の二つの言語レベルと重ねてみる。 第一義諦は,「有るでもなく無いでもなく」であるが,これはマクロの言語レベルである。 世諦は,方便として実体を立てる。これはミクロの言語レベルである。 ちなみに,わたしはこれまで実体論批判・合理主義批判・表象主義批判をつくる者であったが,「ミクロ・マクロ」を方法にするとき,この批判は無用のものになる。 「ミクロ」において,「仮設」ということで,意図的 (確信犯的) に実体論・合理主義・表象主義をやることになるからである。 |