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本居宣長『源氏物語玉の小櫛』一の巻
手習とは、心にうかぶ事を、何となくかきすさふをいふ、
さて此、何事にまれいみしと思ふことの、心にこめて過しがたきすぢは、今の世の、何の深き心もなき、大かたの人にても、同じことにて、たとへば世にめづらしくあやしき事などを、見聞たる時は、わが身にかゝらぬ事にてだに、心のうちに、あやしきことかな、めづらしき事かなと、思ひてのみはやみがたくて、かならずはやく人にかたりきかせまほしく思ふもの也、
さるはかたりきかせたりとて、我にも人にも、何のやくもなけれども、然すれば、おのづから心のはるゝは、人の情のおのづからの事にて、歌といふ物のよまるゝもこれ也
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「数学教師/数学教育学者」は,「人の情のおのづからの事」としての「数学」がわからねば,本来務まらないものである。
翻って,数学教師/数学教育学者は,これをわかるための修行を負う者である。
修行は,「数学書を読み,心を数学になし,そして (下手でも) 自ら数学をつくる」である。
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本居宣長『源氏物語玉の小櫛』二の巻
さて此物語をつねによみて、心を物語の中の人々の世の中になして、歌よむときは、
おのづから古ヘのみやびやかなる情のうつりて、俗の人の情とは、はるかにまさりて、同じき月花を見たる趣も、こよなくあはれ深かるべし、
さるを近き世の人は、古ヘの歌をまねぶとはすれど、古ヘ人の世ノ中をしらず、その情にうとくして、たゞおのが今の心にまかせて、よむ故に、古ヘにたがひて、鄙しげなることのみ、おほくいでくるぞかし
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本居宣長『古事記伝』「古記典等総論」
唯いく度も古語を考へ明らめて、古ヘのてぶりをよく知ルこそ、学問の要とは有ルべかりけれ。
凡て人のありさま心ばへは、言語のさまもて、おしはからるゝ物にしあれば、上ツ代の萬ヅの事も、そのかみの言語をよく明らめさとりてこそ、知ルべき物なりけれ。
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