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本居宣長『源氏物語玉の小櫛』一の巻
此物語のおほむね、むかしより、説どもあれども、みな物語といふもののこゝろばへを、たづねずして、たゞよのつねの儒佛などの書のおもむきをもて、論ぜられたるは、作りぬしの本意にあらず、
たまたまかの儒佛などの書と、おのづからは似たるこゝろ、合へる趣もあれども、そをとらへて、すべてをいふべきにはあらず、
大かたの趣は、かのたぐひとは、いたく異なるものにて、すべて物語は、又別に物がたりの一つの趣のあることにして、はじめにもいさゝかいへるがごとし、
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小林秀雄 (1977),新潮文庫版 上, p.204
「源氏」という物に、仮りに心が在ったとしても、時代により人により、様々に批評され評価されることなど、一向気に掛けはしまい。
だが、凡そ文芸作品という一種の生き物の常として、あらゆる読者に、生きた感受性を以て迎えられたいとは、いつも求めて止まぬものであろう。
一般論による論議からは、いつの間にか身をかわしているし、学究的な分析に料理されて、死物と化する事も、執拗に拒んでいるのである。
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「物語」「源氏」に,「数学」を代入する。
「儒佛などの書のおもむき」「学究的な分析」を,「数学教育学」と読む。
数学教育学は,どのように数学を死物化しているか。
「数学」を,「考え方」「問題解決能力」「リテラシー」の陶冶材と定めて,死物化する。
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小林秀雄 (1977),新潮文庫版 上, p.206
研究者達は、作品感受の門を、素速く潜って了えば、作品理解の為の、歴史学的社会学的心理学的等々の、しこたま抱え込んだ補助概念の整理という別の出口から出て行って了う。
それを思ってみると、言ってみれば、詞花を翫ぶ感性の門から入り、知性の限りを尽して、又同じ門から出て来る宣長の姿が、おのずから浮ぴ上って来る。
出て来た時の彼の自信に満ちた感慨が、「物語といふもののおもむきをばたづね」て、「物のあはれといふことに、心のつきたる人のなきは、いかにぞや」(玉のをぐし、一の巻) という言葉となる。
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マンガを読むのは,「マンガ的」を求めるためではない。
おもしろいから読むのである。
おもしろくないものは,読むのをやめる。
それだけである。
「数学的」を退けて数学を立てるとは,この「マンガ」を「数学」に置き換えるということである。
数学を勉強するのは,おもしろいから勉強するのである。
おもしろくなければ,勉強をやめる。
それだけのことである。
- 引用文献
- 小林秀雄 (1977) :『本居宣長』, 新潮社.
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