Up | 「色即是空 空即是色」を読むには, 「言語レベル」の考えが必要 | 作成: 2010-03-09 更新: 2010-03-09 |
「有って無い・無くて有る」は,不思議なこと・理解しがたいことを言っているのではない。 比較的単純なことを言っている。 そしてこの論述のしくみの理解には,「言語レベル」の考えが必要になる。 <有る>とは,言語主体 (認知主体) が「有る」と言っている,ということである。 <有る>は,言語主体に依存している。 そこで,この言語主体 (Sとする) を,相対化したり,無くしてみる。 そうすると,<有る>は無くなる。──<有る>は無い。
「無い」といま言ったのはわたしであるが,このわたしは言語主体である。 ただし,「有る」を言うSについて語る言語主体である。 ここで,Sが言う「有る」の属する言語 (Lとする) と,わたしが言う「無い」の属する言語は,異なるレベルにあるととらえる。 すなわち,後者を,言語Lのメタ言語ととらえる。 これが,「般若心経」を読むときの要点である。 「般若心経」に出てくる「有って無い・無くて有る」の言い回しは,このような具合に,二つの言語レベルをまたいでいる。 具体的にことばを拾っていくと,つぎのようになる:
すなわち,これより先は<宗教> (<悟り>を神秘化する心的行動) の領域になる。 「般若心経」は,二つの言語レベルでなるこの言語運用が身についている状態ないしその境地を「般若」(智慧)と定め,これを「波羅蜜多」(修行) のゴールとする。 なぜ,これがゴールか? 「有る」を言う主体の相対化により<有る>が無くなることで,つぎのようになるからだ,と言う:
「阿耨多羅三藐三菩提」とは「悟り」のことであるが,「悟り」とは何かすごいこと・神秘的なことを謂っているのではなく,この達観のことである。 但し宗教としては,この「悟り」を,すごいこと・神秘的なことにしていくことになる:
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