Up 実践論 作成: 2018-09-23
更新: 2018-09-26


    現成論は,「無為」を説く趣きになる。
    これは,つぎの反発を受ける:
     「 然らば何事もたゞ、神の御はからひにうちまかせて、よくもあしくもなりゆくまゝに打捨おきて、人はすこしもこれをいろふまじきにや」
     (平田篤胤『古道大意(上)』)
    実際,この問いに対する答え方のいろいろが,現成論のいろいろになる。


    つぎは,禅の物言い:
     「 麻浴山(まよくざん)寶徹禪師,あふぎをつかふちなみに,僧きたりてとふ。
    「風性(じょう)常住,無處不周」なり,なにをもてか,さらに和尚あふぎをつかふ。
    師いはく,なんぢただ「風性常住」をしれりとも,いまだ<「ところとしていたらずといふことなき」道理>をしらずと。
    僧いはく,いかならんかこれ<「無處不周底」の道理>。
    ときに,師,あふぎをつかふのみなり。
    僧,禮拜す。
    佛法の證驗,正傳の活路,それかくのごとし。
    「常住なればあふぎをつかふべからず,つかはぬをりもかぜをきくべき」といふは,常住をもしらず,風性をもしらぬなり。」(道元『正法眼蔵」「現成公案」)
    言うところは:
     「 そのときにはそのときの行動が現れる。これも<現成>のうち。」

    そしてつぎが,国学の言い方である:
       本居宣長『玉くしげ』
    然らば何事もたゞ、神の御はからひにうちまかせて、よくもあしくもなりゆくまゝに打捨おきて、人はすこしもこれをいろふまじきにや、と思ふ人もあらんか、
    これ又大なるひがことなり、
    人も、人の行ふべきかぎりをば、行ふが人の道にして、そのうへに、其事の成と成ざるとは、人の力に及ばざるところぞ、といふことを心得居て、強たる事をば行ふまじきなり、
    然るにその行ふべきたけをも行はずして、たゞなりゆくまゝに打捨おくは、人の道にそむけり、
    事は、神代に定まりたる旨あり、
    大國主命、此天下を皇孫尊に避奉り、天神の勅命に歸順したてまつり給へるとき、天照大御神高皇産靈大神の仰せにて、御約束の事あり、
    その御約束に、今よりして、世中の顯事は、皇孫尊これを所知看すべし、大國主命は、幽事を所知べしと有リて、これ萬世不易の御定めなり、
    幽事とは、天下の治亂吉凶、人の禍福など其外にも、すべて何者のすることと、あらはにはしれずして、冥に神のなしたまふ御所爲をいひ、顯事とは、世人の行ふ事業にして、いはゆる人事なれば、皇孫尊の御上の顯事は、即天下を治めさせ給ふ御政なり、
    かくて此御契約に、天下の政も何も、皆たゞ幽事に任すべしとは定め給はずして、顯事は、皇孫尊しろしめすべしと有からは、その顯事の御行ひなくてはかなはず、又皇孫尊の、天下を治めさせ給ふ、顯事の御政あるからは、今時これを分預かり給へる、
    一國一國の顯事の政も、又なくてはかなふべからず、
    これ人もその身分身分に、かならず行ふべきほどの事をば、行はでかなはぬ道理の根本なり、
    さて世中の事はみな、神の御はからひによることなれば、顯事とても、畢竟は幽事の外ならねども、なほ差別あることにて、其差別は譬へば、神は人にて、幽事は、人のはたらくが如く、世中の人は人形にて、顯事は、其人形の首手足など有て、はたらくが如し、
    かくてその人形の色々とはたらくも、實は是も人のつかふによることなれども、人形のはたらくところは、つかふ人とは別にして、その首手足など有て、それがよくはたらけばこそ、人形のしるしはあることなれ、
    首手足もなく、はたらくところなくては、何をか人形のしるしとはせん、
    此差別をわきまへて、顯事のつとめも、なくてはかなはぬ事をさとるべし、