国学は,『古事記』を真言とする。
『古事記』の神々を立てる。
こうして,国学は宗教になる (「復古神道」)。
宗教は,現成論になる。
宗教となった国学は,は,現成論を説く立場になる。
つぎは,その語り様である:
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本居宣長『玉くしげ』
さて又上に申せるごとく、世ノ中のありさまは、萬事みな善惡の神の御所爲なれば、よくなるもあしくなるも、極意のところは、人力の及ぶことに非ず、
神の御はからひのごとくにならでは、なりゆかぬ物なれば、此根本のところをよく心得居給ひて、たとひ少々國のためにあしきこととても、有來りて改めがたからん事をば、俄にこれを除き改めんとはしたまふまじきなり、
改めがたきを、強て急に直さんとすれば、神の御所爲に逆ひて、返て爲損ずる事もある物ぞかし、
すべて世には、惡事凶事も、必ズまじらではえあらぬ、
神代の深き道理あることなれば、とにかくに、十分善事吉事ばかりの世ノ中になす事は、かなひがたきわざと知ルべし、
然るを儒の道などは、隅から隅まで掃清めたるごとくに、世ノ中を善事ばかりになさんとする敎にて、とてもかなはぬ強事なり、
さればこそかの聖人といはれし人々の世とても、其國中に、絶て惡事凶事なきことは、あたはざりしにあらずや、
又人の智慧は、いかほどかしこくても限ありて、測り識りがたきところは、測り識ことあたはざるものなれば、善しと思ひて爲ることも、實には惡く、惡しゝと思ひて禁ずる事も、實には然らず、
或は今善き事も、ゆくゆくのためにあしく、今惡き事も、後のために善き道理などもあるを、人はえしらぬことも有リて、すべて人の料簡にはおよびがたき事おほければ、とにかくに世ノ中の事は、神の御はからひならでは、かなはぬものなり、
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本居宣長『玉くしげ』
抑かやうに、西の方の外國より、さまざまの事さまざまの物の渡り入來て、それを取用ふるも、みな善惡の神の御はからひにて、これ又さやうになり來るべき道理のあることなり、 ‥‥
さてさやうに、世ノ中のありさまのうつりゆくも、皆神のみ所爲なるからは、人力の及ばざるところなれば、其中によろしからぬ事のあればとても、俄に改め直すことのなりがたきすぢも多し、
然るを古ヘの道によるとして、上の政も下々の行ひも、強て上古のごとくに、これを立直さんとするときは、神の當時の御はからひに逆ひて、返て道の旨にかなひがたし、
されば今の世の國政は、又今の世の模様に従ひて、今の上の御掟にそむかず、有リ來りたるまゝの形を頽さず、跡を守りて執行ひたまふが、即チまことの道の趣にして、とりも直さずこれ、かの上古の神隨治め給ひし旨にあたるなり、
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平田篤胤『古道大意(上)』
神と申すものは,とんと一様に定めては申しがたい物でござる。‥‥
悪しき神とても,悦んで御心の御なごみ遊ばしたる時は,幸ひ恵み給はることの絶えて無いと申すでも有るまいでござる。
又人の上にとりては,其しわざの差當ては悪しく思はれることも,誠には善く,善いと思はれる事も,實には悪き理の有るなども有ろうでござる。
すべて人の智は限りが有て,眞の理は得知れぬ物じゃに依て,とにかくに神の御上は,猥りに測り云うべき物ではないで,況て善いも悪いも,いと尊く殊れたる神等の御上に至りては,最も最も霊く奇々妙々に座ますに依て,更に人の小さき智慧を以て其理などは千重の一重も測り知るべきことではない。
唯その尊きを尊び,かしこきを畏み,恐るべきを恐れて有べきものでござる。
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