元素論は,宇宙論と対になるものである。
即ち,人間の存在の階層から,上に階層を昇っていくのが宇宙論,下に階層を降っていくのが元素論,ということになる。
アリストテレス自然学の「4元素──火風水土」は,この意味の「元素」ではない。
「火風水土」は人間の存在の階層と同じ階層の存在であり,これは「構成素」ということになる。
実際,アリストテレス自然学は,「存在の階層」の考えを持たない。
人間の存在階層の存在論であり,よって人間中心の世界観になる。
アリストテレス自然学がキリスト教の「聖書」になったのは,ここに符合がある。
( アルベルトゥス・マグヌス )
哲学的存在論は,「存在の階層」の考えを持たない故に,「哲学的」である。
ポストモダンの構造主義は,「存在の階層」の考えを持たない故に,「構造主義」である。
存在論は,科学か哲学的存在論かであり,両者を分けるのは「存在の階層」の考えの有無である。
学校数学に,「確率・統計」がある。
これはずっと,扱いに持て余されてきた。
この数学の理由がわからなかったためであり,そしてそもそも,この数学の理由を考えるということが思いつかれなかった。
「確率・統計」の他の数学は,一つの存在階層に対しこれを解析するときの言語になるものである。
「確率・統計」はどうかというと,これは隣合う存在階層のつながりを解析するときの言語になるものである。
一事が万事。
「存在の階層」の考えは,物事の考えの基本になるのである。
しかしこの肝心がなかなか気づかれない。
「肝心は,気づかれないことを特徴とする!」というわけである。
「元素」の科学は,「存在の階層」をあからさまに見せる。
「元素」の科学の効用は,ひとに「存在の階層」の考えを否応なく持たせることである。
そして,存在論の言語が得られていくことである。
|