Up | イデア論の時代性 | 作成: 2017-09-24 更新: 2019-05-31 |
したがって,ことばをしっかりもつことで,真理の側にいられる。 逆に,真理の側にいないのは,ことば使い (ロゴス λόγος) ができていないから。 イデア論はこのようになる。 イデア論はなぜことばをこれほどに信用できたのか? この問いは,逆にいまの時代はなぜことばに信用をおかないのか?と考えることが答えになる。 いまの時代は,「存在」を,下はニュートリノの 10-18m のスケールから,上は宇宙物理学の 1027m のスケールまで,考えねばならない。 このくらい考えられて,「存在」云々の話になる。 科学・技術の進歩が,「存在」のスケール幅をこんなに拡げてしまった。 また,これと併さって,「存在」がとてつもなく複雑なものとして現れることになった。 ここには,「ことばと実在の1対1対応」の考えが出てくる余地はない。 イデア論は,古代ギリシャのものである。 「存在」観は,当時の科学・技術の水準を反映したものである。 そして人間中心でことば中心の存在論が編み出されることになった。 イデア論は,「科学・技術のある水準ではこういう考え方が現れることもある」といったものである。 イデア論は,文化人類学 (考古学) の主題である。
いまの物理学では,ミクロマクロ階層構造の中の特定スケールの現象が,その都度人にとっての存在である。よって,「机」は実在概念として立たない。 ただし,イデア論にこれとだいたい同時期の「色即是空空即是色」を対置すれば,比較文化学の主題になる。
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