Up 備考 : 数学教育 作成: 2019-05-28
更新: 2019-05-28


    数学の理由は明確であり,したがってこれを学ぶ理由も明確である。
    数学は,<科学のテクストを読んだり書いたりするのに必要な言語>として学ぶことになるものである。
    しかしここに問題がある。
    数学教育の現場が,まさに,数学学習の意味をわからなくするところとなっているのである。

    これは,数学教育に携わる者──特に「数学教育学者」──が数学の理由をむりやり歪めているためである。
    彼らは学校数学の理由を「一般陶冶」にする。
    「一般陶冶」なぞ,はなからわけのわからぬものである。
    小学数学ではだませても,中学数学以上は無理である。
    生徒の「なぜ数学を学ぶのか?」の思いは強まるばかりとなる。

    彼らはなぜそうするのか。
    自分が<科学のテクストを読んだり書いたりするのに必要な言語>としての数学の門外漢だからである。
    数学教育を生業にしているからには,数学の門外漢であるわけにはいかない。そこで,数学の理由の方を変えてしまえとなるわけである。
    「数学教育学者」が専ら小学数学を自分の守備領域にする者になっているのも,このためである。

    このことは,数学教育学者自身,少なくとも漠然とは感じている。
    己の問題点ははっきりしている。
    数学の門外漢に甘んじていることである。
    己の課題ははっきりしている。
    <科学のテクストを読んだり書いたりするのに必要な言語>としての数学をきちんと学ぶことである。

    しかしここが系のダイナミクスの妙ということになるのだが,数学教育学者の自閉はスパイラルループを進行するのみとなる。
    彼らは自身の無理構造を感じつつも,これに触れないようにする。
    数学教育が「科学のボトルネック」然となる状況は,改まる契機をもたないというわけである。