Up | なぜ存在論か : 要旨 | 作成: 2019-07-20 更新: 2019-07-20 |
「遠離一切転倒夢想 究境涅槃」になりたいためである。 この思考様式の特徴は,「涅槃」の様を「遠離一切転倒夢想」にしていることである。 なぜ「遠離一切転倒夢想 究境涅槃」になりたいか。 いまが不快だからである。 「遠離一切転倒夢想」は,見掛けがニヒリズムと似てくる。 これがニヒリズムと違うのは,<惚れ惚れする圧倒的ダイナミクス>を立てる点である。 この惚れ惚れは,最上級の惚れ惚れであることになる。 かくして,「遠離一切転倒夢想」はニヒリズムの真逆になるものである。 ニヒリズムとの「似て非なる」を言うときの「非」の意味は,「真逆」である。 「遠離一切転倒夢想 究境涅槃」は,ブディズム──仏教ではない──の概念である。 <惚れ惚れする圧倒的ダイナミクス>の存在論は,ブディズムや老荘思想──「東洋思想」と括っておく──がこれである。 西洋哲学の存在論は,これではない。 西洋哲学の存在論は,貧相である。 この貧相の理由は,プラトニズムの伝統やキリスト教に求めることになる。 プラトニズムは,言語のなぞりをやる。 キリスト教は, ともに,枠組が こうして,東洋思想と西洋哲学では,ダイナミクスのスケール感および質感に差が出てくる。 東の「天網恢々疎にして漏らさず」(老子) の突っぱねたふうに対し,西はつぎのような甘ったれたふうになる:
And day's at the morn; Morning's at seven; The hill-side's dew-pearled; The lark's on the wing; The snail's on the thorn: God's in His heaven-- All's right with the world! (Robert Browning) 「疎にして漏らさず」が「right」になってしまうのである。 東と西の対比で対立することになるものは,「善悪の彼岸」の思想と「善悪」の思想である。 そして,「遠離一切転倒夢想 究境涅槃」の存在論に向かわせる<不快>とは,「善悪」の思想に対する不快である。 「善悪」の思想は,なぜ不快なのか。 欺瞞であり,強制だからである。 「善悪」は,言い換えると「価値」である。 体制は,善悪/価値を立てる。 実際,善悪/価値を立てることは体制の含意である。 体制は,これ以外ではあり得ない。 ひとは,善悪/価値のメカニズムに囚われる。 気持ちのレベルでも囚われる。 この傾向性をブディズム用語で「煩悩」と謂う。 ここまで殊更にブディズムの言い回しを用いてきたが,それは「ダイナミクス」をコンセプトにする存在論は,ブッダをこれのパイオニアに見立てることにからである。 この存在論は,その後進展を見ることはなかった。 ブディズムの仏教化として,荒唐無稽話と 実際,加えればこの類になるしかなかったわけである。 ブッダのコンセプトが内容で埋められるためには,科学の進歩を俟たねばならなかった。 そこで翻って,「遠離一切転倒夢想 究境涅槃」の「涅槃」の意味である。 これは,「ダイナミクス」直覚の境地ということになる。 もちろん,このような位相が実体としてあるわけではない。 これは理想概念である。 そして,「ダイナミクス」。 圧倒的で惚れ惚れするものであるが,「大いなる」の修辞をつけるものではない。 それをしたくなるのは,宗教的性癖である。 自戒すべし,吟味すべし。 |