Up 「善悪の彼岸」立論──文学論 作成: 2019-07-22
更新: 2019-07-22


    文学は,背徳をやることである。
    背徳は,共同体において不利な立場に立つことである。
    文学は自分の肯定になる理屈をつくろうとする。
    こうして,文学論に向かう。

    この理屈は,「善悪の彼岸」になる。
    「悪の肯定」はあり得ないからである。

    「善悪の彼岸」は,絶対的ダイナミクスの措定がこれの形になる。
    例えばつぎのように:

       親鸞『歎異抄』第3章
    善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
    しかるを世の人つねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。
    この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
    そのゆゑは、自力作善の人 [善人] は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。
    煩悩具足のわれら(悪人)は、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

    「悪人正機説」と呼ばれる下りであるが,ここで「他力」といっているのが,「絶対的ダイナミクス」である。
    他力の理は,ひとが推し量れない。
    よって,「他力」を立てることは,そのまま「善悪の彼岸」を立てたことになる。
    このとき「善悪」のことばは,「勧善懲悪」の「善悪」ではなくなり,他力を信じない者と信じる者を区別することばになる。

    この論法は,「善悪の彼岸」立論のやり方を示している。
    立論の要点は,善悪を何にシフトすればよいかである。
    ここで,「善人」を,「自力作善の人」にする。
    「善」は,彼らの作為である。 ──それ以上でも以下でもない。

      もっとも,「悪人正機」のレトリックは,真に受けるものではない。
      親鸞には,善人より悪人の方にシンパシーをもってしまう自分がいる。
      この自分を肯定しなければならない。
      自分を肯定するために,悪人を肯定しなければならない。
      そして紡がれたのが「悪人正機」のあざといレトリックというわけである。