Up 相対主義の解決 作成: 2019-07-27
更新: 2019-07-28


    相対主義というのがある。
    何かを考えることは相対化しつつ考えることだが,これは相対主義とはいわない。
    相対主義は,相対性を「取り換え可能」──「多義性」──に考えてしまうものである。

    好事例が,ポストモダンの構造主義。
    ソシュール,レヴィストロースの構造主義を継いで,つぎを唱えた:
      意味など無い
       よく見よ,そこには物しかない
       これらに対し何かを行うとすれば,それは構造化
    フーコの「アルケオロジー」はこれである:
      「歴史学は,意味を立てるからダメ
       遺物しかない,それの構造化をし得るのみ」
    ポストモダンの文学論否定も,同型:
      「文学論は,意味を立てるからダメ
       語彙/音声しかない,それの構造化をし得るのみ」

    この「構造化」は,「脱構築 déconstruction」と称された。
    しかしこれは,子どもがおもちゃを壊して遊ぶのと同じになる。
    壊した後が続かない。
    dé の後に構築 construction は続かない。
    哲学は企画書で終始するものだが,「脱構築」もこれである。

      《企画書で終始》それ自体は,却けられることではない。
      「企画書」の意義は,その内容が実現されることではない。
      系を攪乱し,経済効果になることである。
      実際,「脱構築」のスローガンの経済効果は大きかったのである。


    相対主義は,幼稚な考えである。
    相対性は,多義性にはならない。
    壊したおもちゃから別のおもちゃはつくれない。

    相対主義は,何を間違っているのか。
    <歴史>を見ていないのである。
    現前は,進化してきて斯く存る。
    進化は,不可逆である。
    この進化が「意味」と対応している。
    意味は,「多義性」が立つというものではない。