Up 「世界=内=存在」の意味 作成: 2017-09-28
更新: 2017-09-28


      細谷貞雄訳『存在と時間 (上)』, pp.133-135.
    「内」は‥‥‥空間的関係を意味していない‥‥‥
    「内」(in) は《innan》から派生した語で、これは「住む」(habitare)、「滞在する」ことである。‥‥‥
    内=存在とは、世界=内=存在という本質的構成をもっている現存在の存在を表わす形式的な実存論的な表現なのである
     ‥‥‥
    「‥‥‥のもとにある存在」‥‥‥ 言語的にはおなじ言葉で表現されるが、存在論的には本質的にことなる存在関係、すなわちカテゴリー的関係を、対照のために引きあいに出してみよう。‥‥‥
    たとえば「机が戸の《もと》(そば) にある」、「椅子が壁に《触れて》いる」と言いあらわすことがある。
    けれども、厳密に言えば、《触れる》とは決して言えないはずである。‥‥‥
    《触れる》ことができるためには、壁が椅子に《向かって》出会うことができるということが、前提条件になるであろう。
    存在者が世界の内部にある客体的存在者に触れることができるのは、それがほんらい内=存在という存在様相をそなえている場合だけである。
    すなわち、それが現に存在しているとともになにか世界というようなものが発見されていて、その世界のなかから存在者が触れてきておのれを現わし、そうしてそれの客体的存在において近づきうるものになっている、という場合だけである。
    世界の内部で客体的に存在していて、その上、それ自体において「無世界的」であるようなふたつの存在者は、決して《触れあう》ことがありえないし、一方が他方の「もとにある」ことはありえない。


    「椅子・壁」が例になると思うのは,アタマが<古代ギリシャ>だからである。
    このアタマに対しては,つぎのような意地悪ができる:
    • 「存在」のレベルを「原子」にとって,「人」も「椅子・壁」も無くしてしまう。
    • 「椅子・壁」の<絶えず物理的作用・化学反応に曝され変化している>の相を取り上げて,「椅子・壁」の「それ自体において世界的」を示す。

    <現代>のアタマだと,「椅子・壁」と「人」の区別は,先ず「椅子・壁」と「生物」の区別を間に挟むことになる。
    その区別の規準は「新陳代謝」である。
    そして<現代>のアタマは,「現存在」は脳が「学習する脳」になっている生物レベルで既にはじまっていることを見る。
    例えば,鳥は現存在である。

    プラトン,アリストテレスの存在論は,時代を斟酌できる。
    ──これは,文化人類学 (考古学) の主題になる。
    しかし,ハイデッガーは,斟酌のしようがない。
    ──主題化しようとすれば,個の多様性 (「人さまざま」) として主題化するのみである。実際,本テクストの立場はこれになる。