Up | はじめに | 作成: 2017-09-26 更新: 2017-09-26 |
一方これは,哲学書全般がそうであるとはいえ,常人には「タイトルを聞いたことはあるが,あたってみたことはない」というものである。 あたってみても,文章が読めたものでないのですぐに放り出すことになる。 実際,この書は「無理して付き合ってみるか」の構えになって読めるものである。 『存在と時間』の「有名」の意味は,「哲学を専門にしているとされる者たち (哲学者) が重要な文献としてこれを取り上げてきた」である。 では,『存在と時間』はどんなふうに重要なのか? あるいは,そもそもほんとうに重要なのか? というのも,哲学者の「重要」は,哲学者が常人とは違うように,常人の「重要」とは違うからである。 実際,いまの時代は,『存在と時間』に思想的価値は無い。 ──いまの時代の「思想」の存在理由は,科学と補い合う関係に立つことである。 では『存在と時間』を取り上げる意味は何か。 『存在と時間』を取り上げるのは,文化人類学が昔の民具や民話を取り上げるのと同じである。 「温故知新」というわけである。 『存在と時間』は,プラトン,アリストテレスのイデア論そのものである。 実際「西洋哲学はプラトンの脚注」と言われるわけであるが,『存在と時間』はイデア論そのものという点で際立っている。 『存在と時間』に思想的価値は無いこと,『存在と時間』を取り上げるのは文化人類学が昔の民具や民話を取り上げるのと同じであることは,一般に知られていない。 実際この場合,「哲学者」は隠蔽する役回りになる。 ということで,本テクストを以て,『存在と時間』を解説してみることにした。 スタンスは「科学」──「哲学ではない」──である。 |